君が望む永遠 アナザーストーリー 「君が望まなかった永遠」  プロローグ  あの人に初めて会ったのは、確か中一の時だったと思う。  病院のベッドの上で何本もの管に繋がれている彼女を見て、僕は 『囚われの姫みたいだ』  って思ったんだ。 「この人は……俺のおふくろの、姉さんなんだ」  隣にいた遙海(はるうみ)兄ちゃんは、淡々とした口調で言った。 「え? だって……」  僕は兄ちゃんを見る。  だってこの人は、そんなに歳を取ってるように見えない。  大分やつれてはいるけれど、大学生だって言われてもわからないくらい若く 見える。 「奇跡、なんだと」  やっぱり遙海兄ちゃんは、興味がないとでもいうように淡々と話す。 「もう十五年も目を覚まさない代わりに、この人は、歳を取らないんだ」  遙海兄ちゃんは、視線を僕からあの人に移す。 「いつか───」  遙海兄ちゃんは、独り言をいうように小さく、つぶやく。 「───目覚めたとき、この人はどうするんだろうな」  その言葉の意味は、その頃の僕にはまだわからなかった。  ただ僕は、やつれながらも美しさを損なわないこの人の寝顔を、じっと見ている だけだったのだ。   第1章 失踪   #1 孝之  トゥルルル……。  席の上の電話が鳴る。 「はい。商品開発部、涼宮です」  受話器を取ると、聞き慣れた声が聞こえてきた。 『涼宮部長。社長がお呼びです』 「……また? 今度の用件は?」 『さあ?』 「……まあいいや、今行く」 『はい。よろしくお願いします』  カチャ、と受話器を置く。 「千歳くん、ちょっと社長のトコ行ってくるから」  俺は立ち上がり、かけてある背広を着る。 「もどりは何時ですか?」 「んー、あの社長だからな、わからんよ」 「あははっ、そうかもしれませんね」  千歳くんは少し大げさに笑う。 「じゃ、よろしく」 「はい、部長。行ってらっしゃい」  俺は千歳くんの笑顔に見送られ、オフィスを出た。  + 「やあ、こんにちは玉野さん。元気?」 「昨日も同じこと言いましたよね、孝之さん」 「こう毎日呼ばれていたらね、玉野さんにかける言葉も無くなるさ」  俺の言葉に、玉野さんが苦笑する。 「先輩は普段忙しい人ですから、時間があくことに耐えられないんですよ」  玉野さんは、俺の前では社長のことを先輩と呼ぶ。俺のことも昔と同じく、 名前で。 「あの頃は、何かとサボっていたのにな」 「もう十五年以上も前の話ですよ」  玉野さんは優しく笑う。その笑顔は、昔の面影を残したまま。 「じゃ、行こうか」 「はい」  玉野さんは立ち上がると、社長室の扉をノックする。 「社長、涼宮部長がお見えになりました」 「入って」  その声に、玉野さんは扉を開ける。 「……今度はなんの用だ?」  戸が開くなり俺はずかずかと社長の机まで歩み寄る。 「……それが社長に対する口の聞き方か? 糞虫」 「……それが社員に対する口の聞き方か? 社長」 「口答えすんなボケぇ!」  バンッと机を叩き、社長は立ち上がる。  が、その身長は俺よりも遙かに低い。  しかし、その鋭い眼光は、他人を威圧し、萎縮させるほどの力がある。  ……俺以外には。 「相変わらずですね」  玉野さんが落ち着いた口調で歩み寄る。 「孝之さんは紅茶ですか? それとも日本茶?」 「まゆまゆ、こんなヤツに茶なんか出さなくていいから」 「でも……」 「いいよ、玉野さん。俺も今回はすぐ帰る予定だから」 「そうですか……」  ちょっとしょんぼりした顔をする玉野さん。 「あ、やっぱ紅茶持ってきて」 「はい、かしこまりました〜」  途端に玉野さんがにこやかな顔に変わる。 「……いいコンビだな」 「アンタと同じく、長いつきあいだからね」 「まあな」  俺が勤める『株式会社すかいてんぷる』の社長は、バイト時代の仲間である 大空寺あゆだ。すかいてんぷるが大空寺グループであり、しかも大空寺あゆが一族 であることなどは、実は入社してから知った。  大空寺が社長に就任して、今年で十五年。昨年ついに業界一位となったすかい てんぷるは、ここからが正念場だと思う。 「……彼女は、元気さ?」  不意にトーンを落とし、大空寺は言った。 「……そう……だな。元気は元気だ。リハビリも順調だし……ただ……」 「……やっぱり、精神的なショックは大きいさ?」 「ああ……茜や両親が付き添ってはいるが、まったく心を開こうとしない」  俺はそう言いながら、首を横に振った。  +  今年の春、一つの奇跡が起きた。  それは誰もが望み、けれど、誰も望まなかった奇跡。  涼宮遙の、目覚め。  あれから十七年。事故から数えれば実に二十年の間眠っていた遙は、何の理由も なく、唐突に、目を覚ました。  けれどそれは、つらい日々の始まりでもあった。  報せを聞いて病院に駆け込んだ俺の目に飛び込んできたのは、半狂乱になって 暴れる遙の姿だった。  とは言っても、思うように動かない身体を懸命に動かす姿は、端から見れば滑稽 にも見える。  病室には、おろおろするばかりのお義母さんと、それに付き添う茜。そして医師 と看護婦たち。 「遙!」  俺はかつての恋人の名を呼ぶ。  その声に遙は反応し、視線を俺に向けた。一瞬だけ、希望を持った瞳で。  けれど、その瞳は一瞬にして絶望に変わる。 「……あなた……誰?」  長い年月は、俺達からかつての姿を奪っていた。俺は四十に手が届こうとして いたし、お義父さんやお義母さんはすでに還暦を迎えている。遙が俺達の姿を認識 できないのも、当然だ。  けれど、  その言葉は、あまりにも厳しい言葉だった。 「……俺……だよ。孝之だよ」  ショックを押さえ込み、一歩ずつ、遙に近づく。 「違うっ、違うっ、あなたは孝之くんじゃないっ。お願い、本当の孝之くんに会わ せてっ」  半狂乱になって叫んだその言葉は、見知らぬ男が近づいてきたことに対する 恐れか。  それとも、現実を認識できない遙の感情が言わせたものなのか。 「涼宮さん!」  それでも近づこうとする俺の前に、医師が割って入る。 「……今は取り乱してしまって無理ですね。今日のところはお引き取りいただき、 また明日にでも来ていただけますでしょうか?」 「……はい」  医師の言葉に従い、俺達は病室を出た。  そうするしか、できなかったのだ。  +  それから、遙は俺達に対して完全に心を閉ざしてしまった。お義母さんや茜の 問いかけにも答えることなく。  ただ医師の勧めるリハビリだけは、黙々と続ける日々。 「きっと遙さんは、外に出れば元の世界が待っていると思いたいのでしょう」  担当の医師が、俺達に説明した。 「二十年近くも眠り続けた遙さんにとって、言わば今は異世界のようなもの。現実 という異世界から逃げ出したい一心で、遙さんは熱心にリハビリをしているのでしょ うね」 「じゃあ……自分で動けるようになった遙が外に出たら……」 「……それをケアするのは、残念ながら私たちの仕事ではありませんから」  医師の言葉はもっともだった。それは、俺達の仕事なんだ。 「わかりました。では遙のリハビリのほう、よろしくお願いいたします」 「はい。全力を尽くします」  真剣な顔で医師が答える。俺は、深々と頭を下げた。  + 「……ま、彼女のことと仕事は関係ないから、しっかりやれよ」 「ああ、わかってるさ」  大空寺の言葉に俺は答える。だが実際は、遙に何かあったら俺は遙を優先させる だろうし、大空寺もよほどのことがないかぎりそれを容認してくれるだろう。 『社員の環境については最大限の努力をする。だから社員も会社の為に最大限の 努力をしろ』  毎年全社員に対し、大空寺が言う言葉だ。ただこの言葉には暗黙的に『ただし 自己をつぶしてまで努力するな』という言葉が付け加えられる。  それがわかっているからこそ、俺達社員は最大限の努力をする。本当に良い会社 だと思う。 「……社長がこいつだってこと以外はな……」 「あん? 何か言ったか糞虫」 「いや別に」  相変わらず鋭い奴め。 「ほら、サボってないでさっさとまゆまゆの紅茶飲んで仕事に戻れ。ウチはぐうた ら社員は必要ないさ」 「お前が呼んだんだろーが、お前が」 「だから用が済んだら帰れって言ってんのさ」 「ああわかったわかった、さっさと紅茶飲んで帰るよっ」  そう言って俺は、玉野さんが煎れてくれた紅茶に手を伸ばす。  ───プルルルッ。  その瞬間、不意に携帯が鳴り出した。 「はい、涼宮です」 『あなた……』  その声は、茜だった。 「……どうした?」  ただならぬ雰囲気に、何か嫌な予感を覚える。 『姉さんが、姉さんが……』 「遙が?」  俺の声に、大空寺が反応する。同時に玉野さんの不安そうな表情が見えた。 『……いなくなったんです』  一瞬、意味が分からなかった。  遙がいなくなる。  何故?  どうやって? 『目を離した隙に、自力で抜け出したみたいで……』  茜の言葉に、遙が懸命にリハビリに打ち込んでいたことを思い出す。  医師からすごい回復だと言われていたが、まさかもう、動けるなんて。 「……わかった。俺もすぐに病院に行く。茜は周りを探してみてくれ。いくらなん でもそう遠くへは行けないはずだろ?」 『ええ、わかりました。あなたも』 「ああ、仕事は何とかするから」  言いながら大空寺に目配せをする。大空寺は手をひらひらさせ『勝手に行け』と サインを出す。 「……じゃ、すぐに」  ピッ。 「ちゃんと部下には指示出してから行け」 「わかってるよ。じゃ、玉野さんまた」 「孝之さん……大丈夫ですか?」 「ああ、大したこと無いだろ」  俺は笑顔で返すと、振り返って社長室を出た。  + 「あ、部長。おかえりなさい」  オフィスに戻ると、千歳君が出迎えてくれた。 「悪いが私用で出る。今日の作業はわかってるね? それと、十六時に飯野食品の 美南さんが来るから、小林君に対応してもらうように」 「わかりました」 「じゃ、頼む」 「行ってらっしゃい、部長」  俺は鞄を掴んでオフィスを出ると、廊下を歩きながら携帯電話で受付を呼ぶ。 『はい、受付です』 「ああ朽木さん? 商品開発部の涼宮だけど」 『あ、涼宮部長。その節はどうもありがとうございます。結婚式にはぜひお呼び いたしますので』 「うん、ありがとう。でさ、申し訳ないけどタクシーを一台、呼んでもらえない かな。ちょっと急ぎなんだ」 『かしこまりました。すぐにお呼びしますので正面玄関でお待ちください』 「わかった。ありがとう」  俺は礼を言って携帯を切る。そして、タクシーが来るはずの正面玄関へと向かっ た。  運が良かったのか、タクシーは既に正面玄関についていた。 「欅総合病院まで」  乗り込むと同時に運転手に目的地を告げる。 「はい」  タクシーが動き出すと同時に、俺は鞄からノートパソコンを取り出す。場合によっ ては明日以降のスケジュールも考えなくてはならない。  メールのチェックをしてから自分のスケジュール、部下のスケジュールを見る。 「……ふむ、今日明日は大丈夫だな」  つぶやく。優秀な部下を持つと楽だ。  もっとも、気を抜くと自分の座が危なくなるのだが。  俺は明日以降の指示をメールで流すと、ノートパソコンを閉じ、携帯を取り出す。  相手はもちろん茜だ。  トゥルルルル……。 『もしもし』 「今向かってる。そっちの状況はどうだ?」 『とりあえずおじいさんと遙海には、連絡したわ。病院にはおばあさんに待機して もらって、私はこれから周りを探してこようと思ってるけど』 「それなら、もう少しで着くから待っててくれないか」 『ええ……』 「大丈夫。すぐに見つかるさ」 『そうじゃないの……姉さん、死んじゃうかも……』 「なぜ?」 『だって、外の世界を信じて頑張ってたのに……全てを知ったら……』  そうだ。  遙は病院の外に、まだ『事故に遭う前の世界』があると信じている。昔の俺や、 茜、お義父さんやお義母さんがいると思ってるはずだ。  それが実際に外に出て、あれから二十年の歳月が経っていると知ったら、遙は 絶望するだろう。 「大丈夫。もっと遙を信じろよ。遙は、お前の姉なんだぞ」 『ええ……』 「もうすぐ着くから。そうしたら一緒に探そう。な?」 『……うん』  最後の声は、なんだか幼い声だった。  そう。  昔を思い出させるような。  そうだ。  俺はもう、茜を悲しませないって決めたんじゃないか。  俺は電話を切ると、目の前の運転手に向かって叫んだ。 「運転手さん、悪いけど急いで!」  君が望まない中書き  続けるか挫折するか微妙な新シリーズ開始です。すべては皆さんの感想にかかってます(ぉぃ  ……それは冗談として、自分の気力が続く限りはがんばってみたいですね。  2003.07.02 あとは受け入れられるか否かだ ちゃある