君が望む永遠 アナザーストーリー 「君が望まなかった永遠」





  第2章 思い出の場所


 #4 慎


 正直、甘く見ていたと思う。
 人を背負ったまま山道を登る、ということを。
 学校前の坂道は、まだ良かった。
 でも、脇に入って山道になった瞬間、状況が変わった。
「遅いぞ慎」
「ごめん兄ちゃん」
 ふう。

 息が上がる。

「だいじょうぶ?」
 背中から聞こえる、遙さんの声。
「ええ、まだまだいけますよ」
 嘘。
 ホントは全身が悲鳴をあげている。
 問題は背中の重さより、両手が使えないことだった。

 ……まいったな。
 口に出したら遙さんに心配されるので、心の中でつぶやく。
 こんなことならもっと身体を鍛えておけばよかったと、手遅れな後悔をする。
「ほら、もうすぐだ」
 先行する兄ちゃんの声。少し力が沸いてくる。
 両足に力を込め、一歩一歩、上っていく。
「……ごめんね」
 耳元で聞こえた、遙さんの声。
「謝る……ことなんて……ないです……よ」
 途切れ途切れの言葉。
 もう、平気なフリも出来なくなってる。
「大丈夫?」
「だい……じょうぶ……です」
 ぐっ、と力をこめる。
 この役目は、誰にも渡さない。


 体力の限界が見えかかったところで、ぱあっと視界が開けた。どうやらここがあの丘の上、らしい。
「お、お疲れ」
 僕は兄ちゃんの言葉に手で答えつつ遙さんを降ろす。そして、真ん中の木に寄りかかるようにして座り込んだ。
「ごめんね」
 もう何度目なのか、遙さんのこの言葉。
「……そう……何度も、謝らないで……ください」
 途切れ途切れに、僕は息の間から言葉を押し出す。
「僕が……遙さんのために……やりたかっただけですから」
 僕は微笑む。
「遙さん。こういう時は謝るんじゃなくて、お礼を言っときゃいいんだよ」
 兄ちゃんが、遙さんの背後から言う。
「うん……ありがとう」
 遙さんの微笑み。
 そう。

 僕はこの笑みのために、頑張ったんだ。

「どう……いたしまして。……それよりも、やりたいことがあるんじゃないですか?」
 ようやく息が整ってきた。
「え?」
「え? って、ここに来たのは、理由があるんでしょう?」
「……そう……だね。あると言えば……あるの……かな」
「なんだ? はっきりしねえなあ。慎の言うとおり、何か目的があって来たんだろ?」
 兄ちゃんが割り込む。
「ホント言うと、ここに来ることが、目的だったの」
「来ることそのもの、が?」
 遙さんの言葉に、僕が問う。
「うん……ここは、私が変わることが出来た場所だから。私の、たった一つの大切な場所だから」
「大切な場所……」
「そう言えば昔、親父に連れてこられたな。覚えてるか? 慎」
「……うん」
 兄ちゃんの言葉に、僕は頷いた。

 あれは、僕が小学校に三年くらいだったか。
 僕と兄ちゃん。そして父さんと孝之おじさんの四人で、僕達はここに来た。
 あのとき確か、孝之おじさんが兄ちゃんに向かって言ったのは───。

『遙海。ここは、俺と母さん。慎二おじさんと水月おばさん。そして、遙おばさんにとって大切な場所なんだ。遙海や慎君にとってはわからないかも知れないけど、大切な場所だってことは覚えて置いて欲しい。そして、ここから見える風景も』

「───って、言ったんだっけか?」
 兄ちゃんが、僕に問うような感じで言った。
「うん。確かそんなんだったと思うよ」
「……そう。孝之くんは、そう言ったんだ……」
 遙さんはつぶやくように言うと、海の方に視線を向ける。
 青い海の遠くに、ゆっくりと進む客船の姿が見えた。
「……うん、変わってない」
「……遙さん?」
 見ると、遙さんの瞳から涙がこぼれていた。思わず、立ち上がる。
「私の周りは、こんなにも変わってしまったのに……」
 言葉が、震えている。
「……どうして? どうして私は、ここにいるの? どうして私だけが、こうしているの?」
 誰に問いかけているのか。
 遙さんは、遠くを見たまま、つぶやき続ける。
「どうして……」
 つぶやきは、嗚咽に変わる。
 僕も兄ちゃんも、何もできなかった。
 ただ泣き続ける遙さんを、じっと見ているしか出来なかった。





  #5 孝之


 俺はあの丘に続く山道を、駆け上がっていた。
 タクシーの支払は茜に任せた。茜にはああ言っても、やっぱり不安は拭えない。
 もしここに来ているのなら、なおさらだ。
「くそっ」
 息があがる。さすがにもう歳だな、と思う。
 腕相撲でももうじき遙海に負けそうだしな、などと余計なことが脳裏をよぎる。
 久しぶりに来た丘は、思ったほどには変わっていなかった。
 けれどやはり来る人は少ないのか、かすかに踏み固められた細い道を進むしかない。
「あっ」
 ビリッ、と嫌な音がした。ズボンを木にひっかけたか。
 また茜に怒られるな、と再び余計なことを考える。
「はあ、はあ……」
 息が続かず、駆け上がるのはあきらめた。けれど一歩一歩確実に上っていく。
「こんなに遠かった……かな」
 昔はもっと近いと思っていたのに。
 けれど。
 不意に視界が開けた。
 丘の上だ。

「親父?」
 俺が周りを見るよりも先に、遙海が俺を見つけた。
 その声に、慎君と、そして、

 遙が、振り向いた。

「……遙」
 俺は、遙の名を呼ぶ。
 ずっと泣いていたのだろうか。目は赤く、頬には、涙の後が残っているような気がする。
「……孝之……くん……」
「……え?」
 遙が、俺の名を呼んだ。
 ずっと『あなたは鳴海孝之じゃない』と、言っていたのに。
「俺の……こと……」
「……ごめんね」
 すまなそうに、遙が謝った。
 昔、何度も聞いた言葉。
 最後に聞いたのは、いつだったか。
 遠い昔の、話。

 でも。
 そうか。

 俺のこと、わかっていたのか。


「遙海!」
 その声に、我に返る。茜がやっと追いついてきたらしい。
「お袋もいたのか」
「当たり前でしょう? 遙海が、何やってるのか、心配なのよ。まったく、電話も、出ないで!」
 息があがっているのだろう。途切れ途切れの言葉で、茜は遙海を叱る。
「茜……」
「……姉さん?」
 遙の言葉に、茜も驚きの表情を隠せない。それはそうだろう。俺と同じように、茜も初めて、遙に名を呼ばれたのだから。
「……ごめんね」
 と、遙はもう一度謝った。
 その表情は、今にも消えてしまいそうな、微笑み。

「本当は、わかってた……目覚めてから、ずっと」
 遙は、ゆっくりと話し始める。
「でも、信じられなかった。今がもう、あのときから何年も経っているだなんて。私だけが、取り残されていたなんて……」
 遙のその言葉は、あまりにも重い。
 俺も茜も、その言葉に対する言葉など、持ってはいなかった。
 ただ、沈黙するだけ。

「……ねえ、孝之くん。おまじない、覚えてる?」
 不意に尋ねられた。おまじない……。
 俺は、遠い記憶を呼び起こす。
「あ、ああ……覚えてるよ。確か……『夜空に星がまたたくように』」
 言葉にした途端、二十年も前の光景が脳裏に蘇った。
「そう……『溶けた心は離れない』」

 『たとえ二人が離れても』

 『二人がそれを、忘れぬ限り』

 公園で、二人で手を合わせて紡いだ言葉。
 ずっと心の奥にしまってあった言葉。
 俺は、はっきりと思い出す。

「私ね……今でも、孝之くんのこと、好き、だよ……」
「え?」
 思いがけない、言葉。
「確かに歳はとったけど、孝之くんは……孝之くんだもの」
 遙の微笑み。
 痛いほどの。
 けれど。

 俺は。

「でも……もう、私の場所は、孝之くんの隣にはないものね」
 笑みが、悲しみを帯びていく。
「孝之くんの隣は、茜がいるんだから……」
「姉さん……」
 俺の隣で、茜がつぶやく。
 確かにこの十七年の間、俺を隣で支えてくれたのは茜だ。
 今でも俺は、茜をかけがえのないパートナーだと思っているし、茜を───

 ───誰よりも、愛している。

「……居場所は、あるよ。姉さん」
 茜の言葉に、その場の視線が茜に集まる。
「私がここからいなくなれば、姉さんは孝之さんの隣に、来れるでしょう?」
「な……」
「お袋……何言ってんだ?」
 つぶやきかけた俺の声を、遙海の声が遮った。
「いなくなるって……どういうことだよ。俺には、言ってる意味がわかんねえ」
 確かに理解は出来ないだろう。俺だって、ずっと忘れていた。十七年前に言った、茜の言葉を。

 ───私が、姉さんの代わりになります。

「茜、お前……」
 俺は茜を見る。茜はその言葉に振り向き、悲しげに微笑む。
 それは、遙が見せた表情と同じで。

 どうして。

 どうして二人は。

 同じ瞳を、俺に向けるのか。

「遙海、良く聞いてね……あと、姉さんも」
 茜は遙海に視線を向ける。その行動に、俺は何もすることができない。

 ───いや。

 そんなことは、ないはずだ。

「茜。それは……俺から話すよ」
 その言葉に、茜がはっとした表情で俺を見た。俺はその瞳に、黙って頷く。
「いいかい遙海。そして、遙」
 俺は、二人が頷くのを待つ。

 そして、話し始めた。
 茜がいなくなると言った理由、そして、茜が俺の隣にいる意味を。





 君が望まない中書き


 2章はここまでです。そして、3章、終章へと続く予定ですが、はたして……。

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