#4 慎  正直、甘く見ていたと思う。  人を背負ったまま山道を登る、ということを。  学校前の坂道は、まだ良かった。  でも、脇に入って山道になった瞬間、状況が変わった。 「遅いぞ慎」 「ごめん兄ちゃん」  ふう。  息が上がる。 「だいじょうぶ?」  背中から聞こえる、遙さんの声。 「ええ、まだまだいけますよ」  嘘。  ホントは全身が悲鳴をあげている。  問題は背中の重さより、両手が使えないことだった。  ……まいったな。  口に出したら遙さんに心配されるので、心の中でつぶやく。  こんなことならもっと身体を鍛えておけばよかったと、手遅れな後悔をする。 「ほら、もうすぐだ」  先行する兄ちゃんの声。少し力が沸いてくる。  両足に力を込め、一歩一歩、上っていく。 「……ごめんね」  耳元で聞こえた、遙さんの声。 「謝る……ことなんて……ないです……よ」  途切れ途切れの言葉。  もう、平気なフリも出来なくなってる。 「大丈夫?」 「だい……じょうぶ……です」  ぐっ、と力をこめる。  この役目は、誰にも渡さない。  体力の限界が見えかかったところで、ぱあっと視界が開けた。どうやらここがあの 丘の上、らしい。 「お、お疲れ」  僕は兄ちゃんの言葉に手で答えつつ遙さんを降ろす。そして、真ん中の木に寄り かかるようにして座り込んだ。 「ごめんね」  もう何度目なのか、遙さんのこの言葉。 「……そう……何度も、謝らないで……ください」  途切れ途切れに、僕は息の間から言葉を押し出す。 「僕が……遙さんのために……やりたかっただけですから」  僕は微笑む。 「遙さん。こういう時は謝るんじゃなくて、お礼を言っときゃいいんだよ」  兄ちゃんが、遙さんの背後から言う。 「うん……ありがとう」  遙さんの微笑み。  そう。  僕はこの笑みのために、頑張ったんだ。 「どう……いたしまして。……それよりも、やりたいことがあるんじゃないですか?」  ようやく息が整ってきた。 「え?」 「え? って、ここに来たのは、理由があるんでしょう?」 「……そう……だね。あると言えば……あるの……かな」 「なんだ? はっきりしねえなあ。慎の言うとおり、何か目的があって来たんだろ?」  兄ちゃんが割り込む。 「ホント言うと、ここに来ることが、目的だったの」 「来ることそのもの、が?」  遙さんの言葉に、僕が問う。 「うん……ここは、私が変わることが出来た場所だから。私の、たった一つの大切 な場所だから」 「大切な場所……」 「そう言えば昔、親父に連れてこられたな。覚えてるか? 慎」 「……うん」  兄ちゃんの言葉に、僕は頷いた。  あれは、僕が小学校に三年くらいだったか。  僕と兄ちゃん。そして父さんと孝之おじさんの四人で、僕達はここに来た。  あのとき確か、孝之おじさんが兄ちゃんに向かって言ったのは───。 『遙海。ここは、俺と母さん。慎二おじさんと水月おばさん。そして、遙おばさん にとって大切な場所なんだ。遙海や慎君にとってはわからないかも知れないけど、 大切な場所だってことは覚えて置いて欲しい。そして、ここから見える風景も』 「───って、言ったんだっけか?」  兄ちゃんが、僕に問うような感じで言った。 「うん。確かそんなんだったと思うよ」 「……そう。孝之くんは、そう言ったんだ……」  遙さんはつぶやくように言うと、海の方に視線を向ける。  青い海の遠くに、ゆっくりと進む客船の姿が見えた。 「……うん、変わってない」 「……遙さん?」  見ると、遙さんの瞳から涙がこぼれていた。思わず、立ち上がる。 「私の周りは、こんなにも変わってしまったのに……」  言葉が、震えている。 「……どうして? どうして私は、ここにいるの? どうして私だけが、こうして いるの?」  誰に問いかけているのか。  遙さんは、遠くを見たまま、つぶやき続ける。 「どうして……」  つぶやきは、嗚咽に変わる。  僕も兄ちゃんも、何もできなかった。  ただ泣き続ける遙さんを、じっと見ているしか出来なかった。   #5 孝之  俺はあの丘に続く山道を、駆け上がっていた。  タクシーの支払は茜に任せた。茜にはああ言っても、やっぱり不安は拭えない。  もしここに来ているのなら、なおさらだ。 「くそっ」  息があがる。さすがにもう歳だな、と思う。  腕相撲でももうじき遙海に負けそうだしな、などと余計なことが脳裏をよぎる。  久しぶりに来た丘は、思ったほどには変わっていなかった。  けれどやはり来る人は少ないのか、かすかに踏み固められた細い道を進むしかない。 「あっ」  ビリッ、と嫌な音がした。ズボンを木にひっかけたか。  また茜に怒られるな、と再び余計なことを考える。 「はあ、はあ……」  息が続かず、駆け上がるのはあきらめた。けれど一歩一歩確実に上っていく。 「こんなに遠かった……かな」  昔はもっと近いと思っていたのに。  けれど。  不意に視界が開けた。  丘の上だ。 「親父?」  俺が周りを見るよりも先に、遙海が俺を見つけた。  その声に、慎君と、そして、  遙が、振り向いた。 「……遙」  俺は、遙の名を呼ぶ。  ずっと泣いていたのだろうか。目は赤く、頬には、涙の後が残っているような気 がする。 「……孝之……くん……」 「……え?」  遙が、俺の名を呼んだ。  ずっと『あなたは鳴海孝之じゃない』と、言っていたのに。 「俺の……こと……」 「……ごめんね」  すまなそうに、遙が謝った。  昔、何度も聞いた言葉。  最後に聞いたのは、いつだったか。  遠い昔の、話。  でも。  そうか。  俺のこと、わかっていたのか。 「遙海!」  その声に、我に返る。茜がやっと追いついてきたらしい。 「お袋もいたのか」 「当たり前でしょう? 遙海が、何やってるのか、心配なのよ。まったく、電話も、 出ないで!」  息があがっているのだろう。途切れ途切れの言葉で、茜は遙海を叱る。 「茜……」 「……姉さん?」  遙の言葉に、茜も驚きの表情を隠せない。それはそうだろう。俺と同じように、 茜も初めて、遙に名を呼ばれたのだから。 「……ごめんね」  と、遙はもう一度謝った。  その表情は、今にも消えてしまいそうな、微笑み。 「本当は、わかってた……目覚めてから、ずっと」  遙は、ゆっくりと話し始める。 「でも、信じられなかった。今がもう、あのときから何年も経っているだなんて。 私だけが、取り残されていたなんて……」  遙のその言葉は、あまりにも重い。  俺も茜も、その言葉に対する言葉など、持ってはいなかった。  ただ、沈黙するだけ。 「……ねえ、孝之くん。おまじない、覚えてる?」  不意に尋ねられた。おまじない……。  俺は、遠い記憶を呼び起こす。 「あ、ああ……覚えてるよ。確か……『夜空に星がまたたくように』」  言葉にした途端、二十年も前の光景が脳裏に蘇った。 「そう……『溶けた心は離れない』」  『たとえ二人が離れても』  『二人がそれを、忘れぬ限り』  公園で、二人で手を合わせて紡いだ言葉。  ずっと心の奥にしまってあった言葉。  俺は、はっきりと思い出す。 「私ね……今でも、孝之くんのこと、好き、だよ……」 「え?」  思いがけない、言葉。 「確かに歳はとったけど、孝之くんは……孝之くんだもの」  遙の微笑み。  痛いほどの。  けれど。  俺は。 「でも……もう、私の場所は、孝之くんの隣にはないものね」  笑みが、悲しみを帯びていく。 「孝之くんの隣は、茜がいるんだから……」 「姉さん……」  俺の隣で、茜がつぶやく。  確かにこの十七年の間、俺を隣で支えてくれたのは茜だ。  今でも俺は、茜をかけがえのないパートナーだと思っているし、茜を───  ───誰よりも、愛している。 「……居場所は、あるよ。姉さん」  茜の言葉に、その場の視線が茜に集まる。 「私がここからいなくなれば、姉さんは孝之さんの隣に、来れるでしょう?」 「な……」 「お袋……何言ってんだ?」  つぶやきかけた俺の声を、遙海の声が遮った。 「いなくなるって……どういうことだよ。俺には、言ってる意味がわかんねえ」  確かに理解は出来ないだろう。俺だって、ずっと忘れていた。十七年前に言った、 茜の言葉を。  ───私が、姉さんの代わりになります。 「茜、お前……」  俺は茜を見る。茜はその言葉に振り向き、悲しげに微笑む。  それは、遙が見せた表情と同じで。  どうして。  どうして二人は。  同じ瞳を、俺に向けるのか。 「遙海、良く聞いてね……あと、姉さんも」  茜は遙海に視線を向ける。その行動に、俺は何もすることができない。  ───いや。  そんなことは、ないはずだ。 「茜。それは……俺から話すよ」  その言葉に、茜がはっとした表情で俺を見た。俺はその瞳に、黙って頷く。 「いいかい遙海。そして、遙」  俺は、二人が頷くのを待つ。  そして、話し始めた。  茜がいなくなると言った理由、そして、茜が俺の隣にいる意味を。  君が望まない中書き  2章はここまでです。そして、3章、終章へと続く予定ですが、はたして……。