#3 慎  気がつくと、視線の先には薄汚れた天井が見えた。  ピッ……ピッ……。  規則的な電子音が、耳に響く。 「慎!」  聞き慣れた声が、聞こえた。  僕は首を回し、声の主を捜す。  そこには、見慣れた顔があった。  僕を十五年間育ててきた、母親の顔が。 「はい平君。聞こえますか?」  不意に別の声と顔が、割り込んできた。  看護師の人だ。 「……聞こえます」 「はい。じゃあ、名前と年齢。それに、ここにいる人が誰か、答えてくれるかな」 「たいら・しん。十五歳。目の前にいるのは、母の水月、です」 「はい。ごめんねー、変な質問して」 「いえ……」  きっと、必要なことなのだろう。  自分の意識が正常であるかを、確認するために。 「じゃ、先生呼んできますからね。どこか痛いなー、とか思ったらこのボタンを 押してくださいね」 「……はい」  じゃ、と言って看護師さんは病室を出ていく。  残ったのは、母さんだけ。 「……まったく。無茶をするのは誰に似たのかな」 「……母さんだと思うけど?」 「ん。そんな答えが出来るなら大丈夫ね。まったく心配したよ。孝之おじさんから 『慎が崖から飛び降りて血を吐いた』って聞いたから」  確かにそうだ。  あのときの状態からすれば、母さんが飛んできてもおかしくないな、と思う。 「……それより……遙さんは?」 「母さんのことより、遙が先なのね。母さん悲しいわ」 「……いいから。遙さんは?」 「無事よ。右足にヒビが入ってたみたいだけど、あとは軽い打撲と擦り傷だけ。 アンタよりよっぼど軽傷よ」 「……そっか、良かった」 「ちなみに慎は重傷。左足、左腕、そしてアバラも二本ほど折れてます。内蔵も ちょっと傷つけたみたいね。ま、命には別状無いって言われたけど」  ……道理で、身体が動かないわけだ。 「……慎、二度とこんなことしないでよね?」  母さんが、僕に顔を近づける。  その瞳には、涙を浮かべて。 「……うん。もう、しないよ」  僕は、そう答えるしか無くて。 「……お願いよ、慎」  母さんはそっと、僕を抱きしめた。   +  それから先生が来て、いろいろと調べられた。  僕の方はと言うと、思い出したようにあちこちが痛み出し、涙が出そうな程だった。 「ま、しばらく入院ですね。おそらく……一ヶ月ほど」 「一ヶ月も?」 「君はまだ若いから、それでも早いとは思うよ。じゃあ、また来ますので。それと、 あとで薬を持ってきますから、食後に飲むようにしてください」  先生の言葉に僕が頷くと、先生は「お大事に」と言って病室を出ていった。  と、入れ替わるように現れたのは、遙海兄ちゃんだった。 「よ。つらそうだな」 「兄ちゃん……」  軽い口調で、兄ちゃんが言った。 「あら遙海。慎の見舞い?」 「まあ……ってか、みんな遙さんとこにいるんで、人が多くてこっちに来たんだけど」  母さんの問いに、兄ちゃんは苦笑して答える。 「そっか……遙は?」 「まあ……元気だよ。ちょっと顔、出してくれば? 俺がここにいるから」 「そう……じゃ、そうしようかな。お願いね、遙海」 「了解」  そう言うと、母さんは病室を出ていった。  いいなあ、俺も遙さんに会いたいよ。 「……どうだ?」  と、兄ちゃんは僕に話しかける。 「身体中が……痛い」 「当たり前だ。いくらなんでも、あの斜面を転がり落ちて無傷なわけあるか」 「だよね。はは……」 「でも……ありがとな」 「……え?」 「お前のおかげで……その……俺の、産みの母親が、助かったわけだし」 「あ……」  そうだ。  遙さんは、兄ちゃんのお母さん、だったんだ。 「まったくな。いきなり言われたって、ピンとこないよな」  兄ちゃんは笑う。 「確かに年齢は水月おばさんや、ウチの親父と同い年だ。でも、外見は俺らより ちょっと上に位にしか見えないんだぜ? それなのに母親って言われても、無理だ よな」  ははは、と兄ちゃんは声を出して笑った。乾いた笑い。  きっと、どうしようもないのだろう。  怒ることも、悲しむことも、どちらの感情も働かず。  ただ、笑うしかないのだろう。 「ねえ……兄ちゃん」 「……なんだ?」 「僕……遙さんのことが好きなんだって言ったら、怒る?」  僕の言葉に、兄ちゃんはしばし言葉を絶句する。 「そ……そうきたかよ」 「……ごめん、兄ちゃん」 「慎はそんなに俺の父親になりたいんだな?」 「そ、そうじゃないよ。僕は純粋に遙さんのことが好きでっ」 「……冗談だ。わかってるよ」  そう言って、兄ちゃんは微笑んだ。 「そうじゃなかったら、あのとき慎は飛び出したりしなかったろ?」  その通りだった。  あのときは考えるよりも先に、身体が動いていた。  助けなきゃ。  護らなきゃ。  その想いが、僕の身体を動かした。 「好きになったのなら、仕方ない。これが小学生とか、人妻だったりしたら問題 なんだろうけどさ」  兄ちゃんは笑う。 「……ま、積極的に応援はしづらいけど……頑張れ」 「……うん。ありがとう、兄ちゃん。それで……お願いがあるんだけど」 「遙さんのとこに、行きたいのか?」 「うん。どうしても、自分のこの目で、無事を確かめたいんだ」 「しかしなあ……」  兄ちゃんは僕を見る。左手には、点滴の管。そして、骨折。 「どうにも、動かせねえよなあ……ま、とりあえず車いす持ってくるから待ってろ」 「うん。ごめんね」 「いいって。いちお恩人、なんだからな」  兄ちゃんは笑いながら、病室を出ていった。  シンと静まり返った病室。  機械も外されてしまったから、電子音も聞こえない。  ズキンズキンと、痛みが聞こえて来そうなほど、静か。  僕はその静寂の空間で、目を閉じる。  感じるのは、痛み。  そして、脳裏に浮かぶのは、あの、  遙さんの、悲しい顔。  僕には、どうにも出来なかった。  あの事実に対し、どうにも僕は無力だった。  でも、護りたい。  遙さんに、笑って欲しい。 「強く……ならなきゃ」  つぶやく。  こんな痛みにも、負けないくらい。  そうでなきゃ、遙さんは護れない。  コン、コン。  病室のドアをノックする音に、僕の思考は中断した。 「はーい」  返事の後、ドアが開かれた。入ってきたのは車いすと、 「慎くん。大丈夫?」 「───遙さん?」  その声に、大きく身体を起こ─── 「痛っ」  ───そうとしたが、激痛に中断を余儀なくされた。 「コラ慎。無理しないの」  聞こえたのは、母さんの声。 「ったくこの子は……」  何か言い返したかったが、痛みで声が出ない。 「慎くん、大丈夫?」  遙さんは、同じ言葉をもう一度繰り返す。 「はい……大丈夫です……」  なんとか言葉を絞り出す。そう言えばアバラも折れてるんだっけ、と頭の片隅で 考える。 「遙が、どうしても慎に会いたいって言うから、連れてきたのよ」 「水月……ごめんね」 「いいよ遙。あたしには、これくらいしか出来ないんだから」  母さんは、そう言って微笑む。  そう言えば、遙さんは母さんの親友だったって、聞いたことがある。  こんな会話をするのも、きっと二十年ぶりなのだろう。 「じゃ、あたしは少し席外してるから」 「うん……ごめんね」 「はいはい。謝るのはなし。じゃあ慎、遙に変なコトするんじゃないよ」 「しないって!」  ビシッと指を指す母さんに、僕は速攻で返す。 「あはは。まあその身体じゃ、変なことしたくても出来ないと思うけど。じゃあね」  母さんはそう言って、手をひらひらさせて出ていった。まったくなんという親だ。 「……すみません。あんな親で」 「ううん。水月、変わってないね……今だって強がり言ってる」 「え?」 「本当は、ずっと慎くんのところにいたいんだよ。でも、私たちのために席を外して くれてる」 「ああ、そうなんだ……」  全然気づかなかった。  母さんが、そんなこと考えてるだなんて。 「それよりも、慎くんが水月と平くんの子供だったなんて、知らなかった」 「あ……すみません」 「ううん。普通はそんなこと言わないもんね。でも、納得」 「何が……ですか?」 「ずっとね、誰かに似てるなあって、思ってた」 「そう……ですね。良く母親似だって、言われます」  和やかな、雰囲気。  こうやって遙さんと話せるなんて、幸せだと思う。 「……慎くん」  遙さんは、微笑を浮かべたまま僕の顔を見る。 「はい?」  改めて名を呼ばれ、僕はうわずった声で答える。 「ごめんね……そして、ありがとう」  遙さんは、泣いていた。  瞳に溢れんばかりの涙を溜めて。 「あのとき、私は死にたいと思った。もうこの世界に、私の居場所はないと思った。 でも、慎くんが、居場所になってくれるって言った。だから……」  涙の粒が、静かに落ちる。  音もなく、ただ、涙の染みが、遙さんのパジャマを、濡らしていく。 「……泣かないでください。僕は、泣いている遙さんに会いたかったんじゃない」  僕の言葉に、遙さんは顔を上げる。 「僕は、笑顔の遙さんが好きです。無理してまで笑って欲しくはないけれど、笑える のなら、笑って欲しい」  不思議と、素直に言葉が出た。  僕の、遙さんへの想い。  その想いが、考えずとも言葉になる。 「……うん。ごめんね」  そう言って、遙さんは。  僕に、微笑んでくれた。   望まない中書き  二人の生活って大変だなあ<私事。  とりあえずここまでできました。もうストック切れです。年内完結は難しい なあ……。