君が望む永遠 Side Story 『君ができること、僕ができること』 Ver2.00
#1
「孝之くん……私、白陵大……受けようと思うの」
病院の帰り道、バス停のベンチに腰掛けた遙が、俺を見上げた。
遙の身体は、もう普通に歩けるくらいには回復していた。しかし、やはり病院までは遠い。駅に着くまで、何度か休憩を取らざるを得なかった。もっとも、皆が『タクシーで行け』と言うのを『歩く』と突っぱねたのは遙自身なのだが。
「そっか……やっぱり児童心理学?」
「うん。やっぱりね、私、絵本作家になりたいの。もう3年経っちゃったし、今から勉強しても、間に合わないかもしれないけど……」
「いや……イイよ、それ。うん、頑張って大学行こうよ」
うつむく遙に、俺は力強く言った。
「勉強なら、慎二もいるし……ほら、茜ちゃんだっているだろ? 俺も応援するよ……ああ、勉強はもう無理だけどな」
「うん」
苦笑する俺の顔を見上げて、遙が微笑む。
「ホントはね、孝之くんと一緒に、通いたかったんだけどな……」
「え?」
「……ううん、何でもない。行こっ」
一瞬寂しそうな瞳をした遙だったが、再び笑顔に戻ると、ゆっくりと立ち上がった。
「ただいま〜」
「今戻りました」
「あらあらあら、お帰りなさい」
ぱたぱたぱた、とお母さんが玄関に迎えに来る。
「今日は、どうだったの?」
「うん、大分良いって。もうすぐだねって」
お母さんに笑顔で答える遙。
「じゃ、俺はこれで」
「あら鳴海さん、これからアルバイト?」
「いえ、今日は無いですけど」
「なら、一緒に夕飯でもどうかしら。久しぶりに」
「いえ、そんな……」
「孝之くん、一緒に食べよ?」
「あ……えー……はい。ごちそうになります」
この母娘の誘いは、どうも断れないんだよな……。
俺は結局押し切られる形で、涼宮家の夕食に招かれることになった。
「5人揃うのも、久しぶりだね」
お父さんがジョッキ片手に微笑む。ちゃんと、自分を含めて言ってくれるのが、なんか嬉しいような、恥ずかしいような。
「鳴海さんがいて一番嬉しいのは、遙じゃなくてお父さんかもしれないわね」
「いやいや、そんなことはないだろう。なあ遙」
「え? あ……うん」
話題を振られて顔を赤くする遙。
「あーあー、アツイわねえ」
パタパタと手で顔を仰ぐふりをする茜ちゃん。
「なんか……いいですね」
俺は思わず声に出してしまい、みんなの視線を集めてしまう。
「あ、いや……大勢で食卓を囲むのって、やっぱいいですよね」
前にこうやってごちそうになってから、もう3年。
その間に、いろいろなことがあった。
それが、今の瞬間を余計に美化しているのかもしれない。
「また、いつでも来てくれて良いんだよ」
お父さんが、笑顔で言う。
「あ、ありがとうございます」
俺は、恐縮して頭を下げた。まずい、涙腺が緩みそうだ。
「そう言えば、もう鳴海君は、いけるのだろう?」
お父さんはそう言って、ビールを指す。
「まあ……少しくらいなら」
話題が逸れたことに感謝しつつ、答える。
「なら問題ないな。母さん」
「はいはい」
お父さんが全てを言う前に、お母さんがグラスを持ってくる。
「あ、ども」
こぽこぽこぽ。
渡された持ったグラスにビールが注がれていく。
「い、いただきます」
俺は腹を括って、一気に飲み干した。
「良い飲みっぷりだね。さすが男の子だ」
お父さんは満足そうだ。
やはりお父さんは、一緒に飲んでくれる息子が欲しかったのだろうな、と思う。だからこそ、俺なんかにこんなに優しくしてくれるのだと。
「あ、そうそう。遙、あれ……家族の皆さんにも、言うんだろ?」
2杯目のグラスを空ける前に、俺は遙に話題をふった。
「え? う、うん……」
不意に振られて戸惑う遙。
「え? 何か発表? ……まさか、結婚宣言?」
ブーッ。
茜ちゃんの言葉に、含んだビールを吹き出しそうになるのを必死でこらえる。
「ゴホッ、ゴホッ」
代わりに、気管に入ったらしい。
「孝之くん、大丈夫?」
「ゴホッ、大丈夫……ゴホゴホッ」
「もう、茜が変なこと言うから」
「でも、この時期に鳴海さんとお姉ちゃんが発表なんて、それしか考えられなかったんだけど」
「あら、違うの? てっきりそうだと思ったのに」
「もう! お母さんまで!」
真っ赤になる遙。フォローを入れてあげたいが、俺はむせてしまってそれどころではない。
「あのね、私……大学、行こうと思うの」
遙は小さな声で、うつむきかげんに言った。
「……そうか」
お父さんが、ビールをテーブルに置く。
「お父さんは、賛成だな。遙には、好きなことをやって欲しいと思うよ。なあ、母さん?」
「そうね。いいんじゃないかしら」
「いいんじゃない? お姉ちゃん、元々行きたかったんでしょ? 私も応援するよ」
「うん……ありがとう」
遙が思わず涙ぐむ。
「ほらほら、そんなことで泣くんじゃない。鳴海君に笑われるぞ」
「あ、遙が泣き虫なのは、十分知ってますから」
「もう、孝之くんのイジワル」
みんなが笑う。
きっと、こんなこともしばらく無かったんだな。この家は。
でも、また笑えたのだから、それでいいよな。
「じゃあ、再度乾杯と行こうか。そうだ、遙も飲んでも良い歳だし、一杯どうだ?」
「え、それは……」
お父さんの言葉に戸惑う遙。うーん、遙が飲むところも見てみたいなあ。
「そうだな。遙も一度体験しておいた方がいいぞ」
「そうかなあ?」
「そうそう」
良いながら遙に空のグラスを渡し、ビールを注ぐ。
「お父さん、私の分は?」
「茜はまだ高校生でしょ」
「えー、ずるーい」
お母さんにたしなめられ、むくれる茜ちゃん。ずるい、ではないだろう。ならば早く20歳になりなさい。
でも、ずいぶん明るくなったな、茜ちゃんも。
……もう、俺のことを「お兄ちゃん」と呼ぶことは無いのだろうけど。
「じゃ、遙の大学入学を祈願して、かな? 乾杯」
「乾杯」
チン、と言う音とともに俺と遙のグラスがあたる。
そして遙は、注がれたビールを一気に飲み干した。
「遙?」
いきなりのことに驚く俺。いきなり一気飲みか?
「ふあーっ……」
トン、とグラスをテーブルに置く遙。なんか幸せそうな顔をしている気がするが、気のせいだろうか。
「だ、大丈夫か?」
いきなり倒れたりしないよな?
「え? 何が?」
何でもないような素振りで返す遙。
「これ、おいしいねー」
遙は笑顔で、ビールを指す。
「そうか、もう一杯どうだ?」
「うん、ちょうだい」
遙はグラスをお父さんに差し出すと、お父さんにビールをついでもらう。
こぽこぽこぽ……。
そしてそれを再び、一気に飲み干す。
「ふあーっ」
幸せそうに微笑む遙。唖然とする家族。
遙、お前……初めて、飲むんだよな?
「お姉ちゃん……すごい……」
かろうじて茜ちゃんが言葉を発する。
「どうしたの? 孝之くん。ほら、孝之くんも飲もうよぉ」
遙は何でも無いかのように、そう言ってビール瓶を持つ。
「はい。孝之くん」
「あ、ああ……」
コポコポコポ。
続いて自分のグラスにもつぐ。
「じゃ、かんぱーい」
「……かんぱーい」
チン、とグラスをあてると、やはり一気に飲み干した。
「ふあーっ」
う、嘘でしょ?
「ほら、孝之くんも」
「あ、ああ」
そろそろキツイんだけどな……。
でも、遙が何だか期待の目で見てるし……。
ええい、ままよ!
ゴクッゴクッ。
「ふーっ」
トン、とコップを置く。
「鳴海君は、ウィスキーなどはいけるのかな?」
「……ええ、まあ。どちらかというと、そちらのほうが」
ウィスキーは自宅に常備しているくらいだからな。
俺は元々ビールをガブガブ飲むよりは、ウィスキーをゆっくり飲むほうが好きなんだ。
……一人で飲むことが多いからだと言われてしまえばそれまでだが。
「じゃあ、そっちにしようか。母さん」
「はいはい」
言われるか言われないかのうちに立ち上がっているお母さん。すごいな。
あっという間にウィスキーと氷が用意される。
しかし、このウィスキー……名前は知っているけど……高いので、飲んだこと無いんだよな……やっぱすげえな。
「ロックでいいかな?」
「あ? ええ」
しまった、ボトルに見とれてしまった。
「はい」
「あ、どうも」
「お父さん。私も」
遙?
「ああ……かまわないが……大丈夫かい?」
「え? 何が?」
いくら小さめのグラスとはいえ、いきなりビールを3杯も飲んで、ケロリとしている遙って……。
「じゃあ、1杯だけな」
「うん」
お父さんは慣れた手つきで用意をする。
「じゃ」
「かんぱーい」
嬉しそうだな、遙……っておい!
ごくっごくっ。
ビールと同じように一気に飲みだす遙。
それはヤバイって!
「ふあーっ」
コトン、とグラスを置く音。
「これもおいしいねー」
平然と話す遙。多少陽気になり、頬がほんのり紅くなったか? という程度で、普段の遙とほとんど変わりない。
マジデスカ……。
「なんだか……母さんを見ているみたいだよ」
「あらあら、そうですか?」
お父さんの言葉に普通に返すお母さん。
……もしかして、アルコールに異常に強い体質は、お母さん譲りですか?
「孝之くん? どうしたの?」
「え? ああ、何でもないよ」
俺は思わず固まってしまっていたようだ。ごまかすようにグラスの中身をぐいっと飲み干す。
「……美味い」
これが高級品の破壊力ですか? 普段俺が飲んでいるものとは比べちゃいけないくらいの味ですよ……。
「ん?」
不意に視界が歪んだ気がした。
あ、なんか回ってるかも。そういや、一気に飲み干す必要なんか無かったんだよな。
しかし……俺、この程度で来るほど弱かったか?
あ、そう言えば昨日はゲームやってて遅くまで起きてたか……また慎二が面白いゲーム持ってきてくれてな……。
「孝之くん?」
んー、なんか遙の声が聞こえた気がするな……えーと、どこまで言ったっけな……そうそう、そのゲームの中ボスがまた……。
「たかゆきくん、だいじょうぶ? ねえ?」
「なるみさーん……たったこれだけでだうんとは、ちょっとなさけなくないですかー?」
……意識が遠のく直前、遠くで遙と茜ちゃんの声を聞いた気がした。
#2
「いたた……」
まだ頭がズキズキする。
あの後起きたときには、午後11時を回っていた。帰ろうと思ったが結局泊まっていけと言われ、客間に泊めさせてもらった。そして朝、シャワーだけ浴びさせてもらって直接ここに来たのだが……。
ごすっ。
「邪魔」
ぐっ……大空寺め、ここぞとばかりに攻撃しやがって。
「孝之さん、大丈夫ですか〜。なんか顔色悪いです〜」
玉野さんが心配そうな顔をする。
「ああ、いや、大丈夫だよ」
「そんな二日酔いは、ほっといていいさ」
「孝之さん、酔っぱらいなんですか〜?」
「いや、今は酔ってるわけじゃないんだけどね」
「ほら、コイツの側にいるとまゆまゆも酒臭くなるよ」
「は〜い」
ぐうう、いつか然るべき制裁を加えてやる……。
ズキズキッ。
あ……ダメだ……今日は邪魔にならないようにシルバー磨きでもしていよう……。
「そんなとこでサボってんじゃないよ」
「サボってねえ!」
グアンッ。
「あいたたた……・」
叫んだだけでこれかよ。くそう。
しかし、遙の飲みっぷりは、すごかったな。まったく顔色を変えなかったもんな。
これから遙と飲むときは気をつけることにしよう……。
俺はシルバー磨きをしながら、そう心に誓った。
午後になって痛みはある程度ひいたが、今日はランチ後までのシフトだったのであがることにした。大空寺にはかなりの皮肉を言われたが、ここは我慢だ。
それにしても、玉野さんの失敗が無かったのが不幸中の幸いだ。彼女も成長しているんだな、と思う。
俺はバイト先から、自宅経由で遙の家へと向かうことにした。いつもは病院だが、今日はないので、暇だろうと思ったのだ。
「そうだ、ビデオでも借りてくか?」
確かアクション映画が好きだったな。と考える。まあ、それ以外のジャンルはかえって自分がわからないので選択肢は無いのだが。……ホラーはヤバイだろうし。
柊町のレンタルビデオ屋で適当に借りる。好みに合えばいいけど。
ぴんぽーん。
「はい。どちら様でしょうか?」
インターホンから声が聞こえる。茜ちゃんかな?
「あ、鳴海ですけど」
「あ、はい。お待ちください」
しばらくすると、茜ちゃんが玄関を開けてくれた。
「こんちは。遙、いる?」
「ええ、部屋にいますよ。……あ。ちょっと、下で待っててくれますか?」
「うん、かまわないけど」
俺は茜ちゃんの言うなりに居間のソファーに浅く腰掛ける。ふかふかのソファーは、深く腰掛けると身体が沈んでしまい、身動きが取れなくなる。
茜ちゃんは遙を呼びに、2階に駆け上がる。
「お姉ちゃん。鳴海さんが来たよ」
「え? えーっ。今日は病院の日じゃないのに。どうしよう?」
「とりあえず、着替える?」
「うん、茜、お願いできる?」
「はいはい」
話し声のあと、幾ばくかの物音。
そっか、まだ遙は着替えも大変なんだよな。やっぱ、いきなり押し掛けるのは良くないな。今度から一報入れてから来よう。
……15分後。
「鳴海さーん、いいですよー」
「お、おう」
茜ちゃんの声に従って、2階の遙の部屋へと足を運ぶ。
コン、コン。
一応ノックを。
「どうぞ」
遙の声に従い、ドアを開けた。
「よっ」
「こんにちは」
遙は、ベッドに腰掛けていた。今は普通の服を着ているが、さっきまでパジャマだったのだろうか。
「悪いな、いきなり押し掛けたりして」
「ううん……嬉しいよ」
「でも、来る前に連絡が欲しいですね。お姉ちゃん、さっきまで寝間着だったし、頭もボサボサだったしで大変だったんですから」
「ああ、ごめん。でも、俺は頭がボサボサの遙も、見てみたかったな」
「そんな、恥ずかしいよ〜」
俺の言葉に顔を赤らめる遙。
可愛い。
部屋を見ると、小さなテーブルの上にノートと参考書。
3年前、俺と遙はここで勉強してたんだっけな。あのころは、俺も白陵大に進路変更したりして、やる気満々だったな。
「茜にね……勉強、教えてもらってるの……」
俺の視線に気づいたのか、遙が説明した。
「教えるって言っても、そんなに分からない訳じゃないんですよ。大体私も進学希望じゃないから、あんまり勉強してないですし」
「でも、微妙に違っていて、結構難しいよ」
「そうかな……」
首を傾げる茜ちゃん。
「まあまあ。やっぱ勉強って、他の人とやるとはかどることも多いし」
「そうですね。鳴海さんがそうでしたもんね」
「まあな。結局俺は大学には行かなかったけど……」
ここまで言ったとき、遙がうつむいているのが目に入った。
「……ごめんね。孝之くん」
しまった。やはりまだ気にしていたんだ。
「遙が謝る話じゃないよ。大学行かなかったのは、俺の問題だ。それよりも今は、遙に大学に行って欲しい。俺みたいに軽い気持ちでなく、本当にやりたいことがある人には、頑張って欲しいんだ」
「うん……」
目に涙を浮かべる遙に、俺は強い口調で言った。
「あ、私、お茶煎れてくるね」
気を使ってか、茜ちゃんが部屋を出ていく。
「あ、そうそう、遙が暇を持て余してると思ってさ。ビデオ借りてきたんだ」
そう言いながら持ってきた袋を開ける。
「遙、アクションが好きだったよな? とりあえず『ラッシュ・アオー』と『カンパイ・ヌーン』を借りてきたよ。俺の好みで『ジョッキー・チェン』ものにしたけど」
「あ、私も『ジョッキー』好きなの。嬉しいな」
遙が微笑む。
「よし、せっかくだから茜ちゃんと3人で見る?」
「そうだね。なら、居間の方がいいかなあ」
「だな。じゃあ、移動しようか。立てる?」
「うん……大丈夫」
遙はそう言って、ゆっくりとであるが立ち上がる。
何の支えも無しに。
ああ、ずいぶん回復してるんだな。
「……? どうしたの?」
「いや、行こうか」
俺は涙腺が緩みそうになるのをこらえると、部屋の扉を開けた。
その後、俺たちは映画を2本、立て続けに見た。
「面白かったね」
「ん、遙が満足したなら良かったよ」
「でもなんか、海とか山とか見ていたら、私も、行きたくなっちゃったな」
「お姉ちゃん……」
「もう少し体力がついたら、旅行にも行けるようになるさ」
俺は元気づけるよう、笑顔で答える。
「うん……」
それがいつになるかわからない。漠然とした不安が遙にはあるのだろう。
「な、昨日先生にも『もうすぐだ』って言われたじゃないか。大丈夫。頑張れば、すぐ行けるようになるって」
「うん……ごめんね」
アクション映画を借りてきたのは、かえって逆効果だったかな。
俺は悲しげな遙の顔を見て、そう思った。
結局、あの後うまく話すことができず、俺は両親が帰ってくる前に涼宮家を出た。茜ちゃんがいたので、遙とキスができなかったのが残念と言えば残念だ。
例えばキスひとつで、元気づけることもできたのに。
俺は帰り道、遙に何ができるだろうかを考えた。俺は言葉で元気づけるしかできないのだろうか。それでも遙の恋人と、言えるのだろうか。
何が、できるのだろう……。
答えは出なかった。
翌日、俺は昨日の醜態を取り返すかのように働いた。大空寺は「そんなの当然さ」などと言っていたが、あれには後で冷凍の刑でも与えてやるとしよう。
俺は合間を見て玄関の掃除をする。そのとき、ふと目にとまるものがあった。
それは、自動車教習所の案内だった。比較的交通の便が良いこのあたりでは必要のないものだと思っていたが、不意に遙のことが頭をよぎった。
免許を取れば……遙を乗せて移動できるな……。長く歩くことのできない遙を連れて……。
「これだ!」
「そこの単細胞生物、店の中で大声出すなや。客に迷惑さ」
ぐぐぐ、大空寺めぇ……。
でもまあ、俺も目標を見つけたからな。今日のところは我慢してやる。
俺は教習所の案内を4つ折りにすると、ズボンのポケットにしまった。
「お疲れ様でしたーっ」
俺はさっさとあがると、昨日借りたビデオを返却し、自宅へと戻った。
フンフンフン〜。
鼻歌を歌いながらカップラーメンにお湯を入れる俺。
……なんか、虚しい……。
「気を取りなおしてっと」
大きくため息をついた後、改めて教習所のチラシを見る。
「ふむ……合宿免許……は、無理だな……まあシフトは比較的変えられるから……問題は……これか」
俺の前に立ちはだかる『30万』の壁。
「……あれを、使うときが来たか」
俺は引き出しにしまってあった通帳を出す。
いつか引越しをしようと、水月に内緒で貯めておいたへそくり。
思い出す、水月との会話。
*
……半年前。
「ねえ、やっぱり引っ越そうよ〜。二人じゃ狭いよ」
もう何度聞いただろう、この水月の言葉。
「お金ならさ、あたしが出すから。ね?」
「俺みたいなフリーターは、部屋を借りるのだって大変なんだからさ」
「もっと大きな洗面所が欲しいよう。このスペースでお化粧とかしていくの、大変なんだからね」
水月の言葉はもっともだ。良くあのスペースと化粧箱一つで、あれだけの身だしなみが整えられるものだと感心してしまう。
「今だって、なんとかなってんじゃねーか」
「毎日じゃないから何とかなってるんだよ。ね? 広い部屋に越してさ。一緒に住もうよ」
「……仕方ないな、考えとくよ」
「ホント? やった」
水月は小さくガッツポーズ。
「言っとくが、考えとくだけだからな」
「いいよ。とりあえずそれだけでも。まずは足がかりだから」
「コイツ……」
「ね?」
水月は、嬉しそうに微笑んだ。
*
ずっと水月の言葉をのらりくらりとかわしていたのは、引越しの予算が確保できるまでのつなぎだったんだ。
……水月とは、別れてしまったけど。
ああもう、だからこれには手をつけたくなかったんだけどな。
水月を思い出してしまうから。
今俺の心には遙しかないとは言え、思い出が消える訳ではない。
イルカとタコのカップに、やっと慣れたところなのにな。
しかし、ここはためらう時ではないと思う。
早速明日休みだから、行ってみるか……。
#3
それから2ヶ月。俺はバイトと遙とのデートの合間を縫って教習所に通いつめた。若干会う回数が減り、遙は不信そうな顔を見せたが、何とかごまかし通した。すでに免許を取っている慎二に仮免教習に付き合ってもらったりもした。
そして今日、免許センターで無事試験に合格したのだ!
ついにやったね。俺。
やっぱこれってラヴの力ってやつ?
俺は浮かれながらこの喜びを誰に伝えようか考えた。
なーんて、そんなの一人しかいないジャン。
俺は携帯から遙に電話をかける。
プルルルル……。
『はい、涼宮です』
「あ、もしもし、鳴海ですけど」
『あ、鳴海さん? 茜です』
「あれ? 茜ちゃん……学校は?」
『やだな、今は試験休みですよ……水泳の練習は、ありますけど……』
「そっか、もう12月だもんな。ところで……」
『姉さんですか? ちょっと待っててください』
保留音が流れる。
『もしもし……』
「あ、もしもし遙?」
『孝之くん……こんにちは』
「ああ、こんちは」
『どうしたの? こんな時間に』
「ああ、見せたいものがあってね。これから、家に行ってもいいかな?」
『うん、大丈夫だよ』
「じゃあね、今ちょっと出先だから……1時間くらいで行くと思う」
『うん。待ってるね』
「おう、じゃまた」
『うん』
俺は携帯を切ると、駅への道を走り始めた。
「ジャーン」
「あ、運転免許証だ」
「え? え? どうしたの?」
「今日取ってきたのだ!」
自慢げな俺。何しろ筆記も実地も一発合格だからな。
……落ちたら、金が足りなくなってしまうってのが、やっぱ大きかったな。うん。
「ここしばらく、何かおかしいと思ったら……教習所通いでしたか……」
茜ちゃん……そんな冷ややかな目で見ないでくれ……。
「う……いきなり見せて……遙を驚かせたかったんだよ……」
茜ちゃんの視線に押されて、落ち込み気味の俺。
やっぱ、遙に会う回数も減っちゃったのはまずかったか……。
「こ、これで遙をいろんなとこに連れていけるぞ。海でも山でもどんとこいだ」
「わあ、嬉しいな、孝之くん」
素直に喜んでくれる遙。くう、可愛いぜ。
「で、車はどうしたんですか?」
「は?」
「車。自動車の免許を取って、姉さんを連れてどこかに行こうって言うなら、当然、用意してあるんですよね?」
ガーン!
「わ……忘れてた……」
俺の言葉に、茜ちゃんが心底呆れたような表情で大きなため息をつく。
「鳴海さんってホント、いっつもどこか、抜けてるんですね」
「ええ? それじゃ、出かけられないの?」
呆れた表情の茜ちゃんと残念そうな遙を交互に見て、何も言えなくなってしまう。
「……うう……ゴメンナサイ」
ぺこっ。
深々と頭を下げる。
「……まあ……レンタカーを借りるとか、いろいろ方法はありますけどね」
茜ちゃんのフォロー。そうだよ、その手があるではないですか。なんだ、こんなに落ち込んで損しちゃったな。
……いや、車のことを完全に忘れていた時点で、反省の必要があるが。
「そうだね。そうしたら早速、次の休みにでもどこか行こうか」
「え? ほんと? 嬉しいなあ」
「おう、本当だ。どこ行きたい?」
「えーっとね、うんとね……海……は近いから……山のほうがいいかなあ。あ、でも、今は寒いよね」
「……それは海も同じかと」
「そうだね。じゃあね、じゃあね……うーん……」
誕生日のケーキを選ぶ子供みたいな表情で、遙が悩んでいる。
そんな、仕草の一つ一つが愛おしく思う。
「そうだ、温泉でも行く?」
ふと思いつき、言葉にする。
「あ、うん。行きたいな」
嬉しそうに遙が微笑む。そう、この笑顔が見たくて、俺は2ヶ月頑張ったんだよ。
免許を取って、本当に良かった。
#4
そして次の休み。俺たちは日帰りで温泉に行くことになった。
……のだが。
「鳴海君、リラックスだよリラックス」
「は、はい」
俺は緊張した面持ちでハンドルを握る。
「鳴海さん。みんなの命を預かってるんですからね。頼みますよ」
「はっはっは。お父さんが隣にいるから大丈夫だよ」
「あらあらあら」
「孝之くん……頑張ってね……」
何で涼宮家全員とお出かけデスカー。
ことの起こりは、あの日の夕食を涼宮家でいただいたことだった。
「あのね、鳴海さんが運転免許を取ったんだって」
食事中、茜ちゃんが話題を出した。
「でも、運転する車のことすっかり忘れてたんだよ。お姉ちゃんをドライブに連れていくつもりだったのに」
ガーン!
ココデモモチダシマスカ……。
「すみません……」
「はっはっは、鳴海君らしいね」
豪快に笑うお父さん。
「まあ、車なら私のを使うといい。私もめったに乗ることは無いからね」
「いや、でも」
だって、お父さんの車って、あの『ギャ』レージにある車ですよ? 高級セダンですよ? そんな高そうな車に、初心者マークをつけて走るんですか?
「ちょうどいいじゃないですか鳴海さん。これで、姉さんとドライブ行けますよ」
茜ちゃんが『万事OK』と言った調子で微笑む。
「い、いや、そうだけど……自信無いなあ」
「ふむ、では私が隣に乗るから、練習してみるかね?」
「え? お父さんが……ですか?」
まあ……それなら安心だけど……。
慣れておいたほうが良いのは事実だし。
「あ、いっそのこと皆で行くのは? 温泉でしょ? 私も行きたいし」
「あらあら、それもいいわね」
え?
「ふむ、それも良いかもしれないな。どうだろう鳴海君」
「ええと……」
この状況で、誰が断れると言うのですかね?
「ぜひ、お願いします」
ぺこっ。
こうして、涼宮家と温泉に行くことになったのだ。
「鳴海君。次の交差点を右」
「はい」
交差点に入る50メートル前からウインカーを点滅させ、車を右に寄せ減速。
斜め後方を目視して右折。
……ふう。
なんか教習中より緊張するんですけど。
慎二の車で仮免練習したときは、結構気楽に乗ってたんだけどな。
ぶつけてもいい? って聞いたら激しく首を振られたが。
ケチなやつだな。
「……次、3つ目の信号を左。そうすればあとは一本道だから」
「はい」
イカンイカン。今はよけいなことを考えている余裕はなかったよ。
しかし、お父さんが隣ってのは激しく緊張しますね。
何だか後ろでは、遙が同じくらい緊張の眼差しで俺を見てるし。
「お姉ちゃん。そんなに緊張すると疲れちゃうよ」
「うん……でも……」
両手をぐっ、と握りしめて俺の運転を見つめているらしい。
「遙、俺は大丈夫だから」
「うん……でも……」
頷きながらも真剣な眼差しで俺を見ている。
ダメだな。こりゃ。
早く運転上手くなろう……。
到着した温泉は比較的穴場という感じで、あまり客はいなかった。俺は何とか無事に車を駐車すると、遙と同時に安堵のため息をついた。
「鳴海君。初めてにしては、上出来だと思うよ」
「はあ……ありがとうございます」
なんか、非常に肩が凝った気がする。
その意味でも、温泉で正解だったかも……。
「あ、この温泉、混浴あるんだ」
茜ちゃんがパンフレットを見て言った。
「あらあら、そうなの?」
「うん、ある、というよりもそれが目玉みたい。なんか女性は専用の水着みたいのを貸してくれるみたいだよ。お姉ちゃん。これで鳴海さんといっしょに入れるね」
「え? ……うん……」
照れる遙。可愛いねえ。
「鳴海さん。顔がニヤケてますよ」
ガーン!
慌てて顔を抑える俺。また気づかぬうちにか? お父さんとお母さんの前で?
「ふふっ、嘘です」
「……やめてくれよ茜ちゃん」
悪戯っぽく微笑む茜ちゃんを見つつ、ため息をつく俺。
「じゃ、先行きますね。また中で会いましょう」
そう言って3人は女湯へと入っていった。
「我々も行こうか」
「あ、はい」
お父さんに促され、俺も男湯へ向かった。
いや、温泉っていいねえ。
ここの温泉は内風呂が2つとサウナ、そして目玉の巨大混浴露天風呂がある。
俺とお父さんはさっと体を洗うと、取りあえず内風呂に入る。
あーっ、生き返る気分。
「やはり、いきなり長距離の運転は厳しかったかね?」
「あ、いえ。お父さんの案内があったので、そうでもありませんでしたよ」
お陰で激しく緊張はしましたが。
「そう言ってくれると嬉しいな」
まあ、お父さんも何だか嬉しそうなので、いいかな。
そうだよな、こう言うところに家族で来ても、いつも自分一人だもんな。
「鳴海君」
「はい」
不意にかしこまってお父さんが俺を呼んだ。
「……ありがとう」
「……え?」
「遙を、選んでくれて、ありがとう」
「え、あ、いや、何言ってるんですか」
「正直、鳴海君はもう遙の元へは帰ってこないと思っていたよ。あー……速瀬……さんだったかな。彼女との生活を選ぶものだと思っていた。何しろ、私自身が、鳴海君に自分の生活を選ぶように言ったのだからね」
「お父さん……」
「前にも言ったかと思うが、私は遙の父親だからね。遙の事を一番に思ってしまう。だから、遙の意識が戻ったとき、遙には鳴海君が必要だと考え、君に連絡してしまった。言ってみれば、私が鳴海君の生活を壊してしまったのだよ。私が連絡さえしなければ、鳴海君は、速瀬さんと今も変わらない生活を、送っているはずなのだからね」
お父さんはいつにも増して饒舌だった。
「そんな……やめてくださいよ。俺は、あの時お父さんに呼ばれたことを嬉しく思ってますよ。そうでなければ、俺は二度と遙に会うことが無かったかもしれないんですから。そして、遙とこうしていられることも、無かったんですから」
何か、前にもこんなことを話した気もするが、気のせいだろうか。
「今は、水月とは離れちゃいましたけど、水月は、俺と、遙の親友なんです。きっといつか、水月も笑顔で戻って来てくれると、俺は思ってます」
「君は……強いな」
「そんな、弱いですよ。だって俺は、遙のことを待てなかったんですから」
「いや、そんなことは無いよ。迷って、迷って、壊れそうになるほど悩み抜いて答えを導き出したとき、その思いは、何よりも強くなるものだと、私は思うよ」
「これからも……迷うかもしれませんよ?」
「そのときはそのときだろう。人生、何が起こるかわからないのだから」
お父さんはそう言って笑う。
ああ、そうだな。
お父さんは、俺なんかよりずっと多くの経験をしているんだ。
だからこそ、今のような言葉が出せるのだろう。
俺は……お父さんみたいな大人に、なれるだろうか?
「そろそろ遙たちも出てくるのではないかな。私たちも行こうか」
「はい」
思いつめたような俺の表情を察してか、お父さんは俺を促すと、露天風呂へと歩き出す。俺は一拍置いてから、お父さんの後をついていった。
「あ、お父さんだ」
露天風呂では既に女性陣が揃っていた。さすがに外は寒く、俺たち以外は誰もいないようだ。
さすがに外にいるのは寒いので、すぐに風呂に入る。
ふう、あったかい。
「お父さん。遅いよ」
「はは、スマンスマン。鳴海君と少し話をしていたからね。やはり、男の子がいると違うなあ」
「あらあら」
お父さんの言葉に微笑むお母さん。
しかし……風呂用の水着って、バスタオルの大きいやつを輪にして、胸の上と腰を紐で縛ったようなデザインなんだなあ。
ウム、絶景である。
ラインがぴったり出るわけでは無いが、やはり両肩が出ているというのが大きいな。
こう、最近徐々に肉が付いてきた……いや、スタイルが戻ってきた遙は言うに及ばず、茜ちゃんのこう、鎖骨のラインがまた……。
あ、ヤバイかも。
平常心平常心。
何しろこっちはタオル一丁だからな。
男用も作ってくれれば良いのに。
「孝之くん。そっちにいないで、こっちにおいでよ」
遙がそう言って自分の隣を指す。なんか、いつに無く積極的だな。
「お、おう」
遙に促され、隣に移動する。
「ほら、ここからの景色が綺麗なんだよ」
遙が指す先には、雪化粧をした山が遠くに見えた。透き通るような青空とマッチして、まさに絶景だ。
遙はこれを見せたかったのか。
俺は湯の中で、遙の手を握る。
不意のことに遙は驚いた表情で俺を見るが、それはすぐに微笑みに変わる。
遙はすっと身体を寄せ、俺の肩に寄りかかる。
ああ、こういうのも幸せってヤツなんだな。
「あの〜、お二人さん? イチャつくのは、私たちが見てないところでして欲しいんですけど〜」
はっ。
茜ちゃんの言葉に我に返る。見るとご両親と茜ちゃんが、複雑そうな表情でこっちを見ている。
「あわわわわっ」
「ややややだっ」
慌てて離れる俺と遙。
「いや、若いっていいねえ」
「ホントですねえ」
お父さんとお母さんが、そう言って笑う。
「あ〜あ、私も彼氏作ろうかな〜」
「本当にね。茜にも、鳴海さんのような良い人が、お付き合いしてくれればいいのですけど」
「なっ」
茜ちゃんの顔が真っ赤に変わる。
「ななな何言ってるのお母さん。あああたしはもっとカッコ良くて、ヌケてなくて、頭が良くて、優しい人を彼氏にするんだからね!」
お母さんの不意打ちを食らって慌てる茜ちゃん。中々見られない光景だなあ。
しかし、茜ちゃん……俺ってそんなにダメなやつですか?
まあ、夏の頃の俺を見てれば、納得もするけどな。
……更正してやるっ。
「私は、今の孝之くんで、いいからね」
遙が小声で囁く。
「サンキュ」
俺は短く、感謝する。
遙が俺を信じていてくれる。それが、何よりも嬉しい。
だから、もう、裏切らない。
二度と、離れたりしない。
「そうそう、鳴海さん」
何かを思い出したかのような表情で、お母さんが俺を呼ぶ。
「何ですか?」
「遙と、婚約してくれると嬉しいんですけど」
「……え?」
えーと。
今、何と言いましたか?
コンヤク?
それって、食べ物じゃないですよね?
『結婚の約束』ってヤツですよね?
ですよね?
……ふと隣を見ると、遙もキョトンとした顔をしている。
あ、こっちを見た。
二人同時に、首を傾げる。
「「えーっ」」
二人の声がハモった。
「ややややだお母さん。ななな何をいきなりっ」
「そ、そうですよお母さん」
顔を真っ赤にする遙と俺。
「母さん。こう言うことは、もう少しタイミングというものを考えてだね」
さすがにお父さんも少し呆れ顔だ。
「あらあらあら、そうでしたか? 仲の良さそうな二人を見ていたらつい……」
お母さんが不思議そうな顔をする。
いやいやお母さん。いくらなんでも、このタイミングはないのではないですかね?
それに……俺は……。
俺は遙に目をやる。遙は照れているのか、耳まで真っ赤にしてうつむいている。
「お母さん」
俺は思い切って口を開いた。
「悪いんですが、婚約の件、今は、受けることはできない……です」
はっ、という面持ちで遙が俺を見るのがわかった。
茜ちゃんも、驚いたような表情をしている。どうして? という表情。
「どういう、ことかね?」
お父さんが尋ねてきた。
「俺はまだ、単なるフリーターです。今後、遙を幸せにする自信が、まだありません。それに、遙にも大学に行くという、目標があります。俺は、それを妨げたくない。まずは、それらをクリアしてから、改めて考えさせてくれませんか」
これが、今の本音だ。
別に婚約が嫌なんじゃない。俺は、ゆくゆくは遙と結婚したいと思ってる。
ただ、まだ俺達はやりたいこと、やらなきゃいけないことが残っている。
それを達成してから、もしくは区切りを付けてから、考えたいんだ。
お父さんやお母さん、そして遙は、俺の気持ちをわかってくれるだろうか。
「……私も、孝之くんと同じ気持ちだよ」
少しの間の後、遙が口を開いた。
「私は、孝之くんのことが好き。でもね、まず、白陵大に合格するのが、私にとって一番最初にしなくちゃいけない事なの。婚約とか、結婚とかは、その後考えたい……ね。孝之くん」
遙が俺の方を向いて微笑む。俺はその笑顔に頷きで答える。
「お母さん。二人には、まだ早いようだよ」
「そうですねえ」
お母さんは残念そうな顔をする。
「まあまあお母さん。お姉ちゃんと鳴海さんは『今はダメ』って言ってるんだからさ。鳴海さんが就職して、お姉ちゃんが大学に受かったら、婚約すればいいじゃない」
「そうねえ……」
「ね?」
茜ちゃんが俺たちのほうを向いた。同意を求めているのだ。
「あ、ああ……」
「ほら、鳴海さんもああ言ってるし。もうすこし我慢しようよ」
「そうねえ。そうしましょうかねえ」
なんとか説得成功というところか。えらいぞ茜ちゃん。
「さて、そろそろ出ようかな。どうやら遙も限界みたいだし」
「え?」
お父さんの言葉に遙の方を向くと、遙が真っ赤な顔でぐったりしていた。
「うわあああっ、遙っ、大丈夫か?」
今にも沈んでいきそうな遙を慌てて抱えあげる。
「ほえ……」
おいおい、目の焦点が合ってないぞ。
「遙っ、大丈夫か?」
「……うん」
「……ダメか?」
「……うん」
「……どっちだ?」
「……うん」
……ちょっとヤバイかも。
「鳴海さん。姉さんのことは任せてもらっていいよ」
「でも」
「だって、鳴海さん女湯入れないでしょ?」
「あ……」
茜ちゃん……そんな憐れむような目で、俺を見ないでくれないか?
遙のことで、頭が一杯だったんだよ……。
「お願いします」
「ハイハイ。じゃあ入り口のところで」
茜ちゃんは気楽な調子で返す。
まあ、家族が慌てないところを見ると、そうたいしたことではないのだろう。
……もしかして、日常茶飯事なの?
#5
遙の回復を待って、俺達は温泉を後にした。帰りはお父さんが運転してくれることになったので、俺は遙の隣に座ることにした。と、言うよりも後部座席の真ん中と言うほうが正しいか。
遙はさすがに疲れたのか、早々に寝息をたてている。俺は遙を起こさないように、そっと抱き寄せる。
と、不意に左肩に重みを感じた。振り向くと、茜ちゃんが俺に寄りかかって眠っていた。
こうして寝顔を見てると、やはり姉妹だな、と思う。なんと言って良いかわからないけど、似てるんだ。
……しかし、身動きが取れなくなったな。
こうなると身じろぎひとつ出来ない。俺が戸惑いの表情をしていると、バックミラー越しにお父さんと目が合ってしまった。
とりあえず、訳もわからなく苦笑する。
帰りは、行き以上の緊張を強いられていた。
その後途中で食事をし、涼宮家に着いたのは午後9時を回っていた。
「今日はホントに、ありがとうございました」
ぺこり、と俺は頭を下げる。
「いやこちらこそ、いろいろすまなかったね」
と、お父さん。まあ確かに、いきなり婚約の話を出されたときは参りましたがね。
「孝之くん。また、連れて行ってね」
「おう、どこだって連れて行ってやるぞ」
……出来れば、二人で。
「そうですね。今度は二人で行けるといいですね」
……茜ちゃん。まだ人の心を読む能力、衰えてなかったんですか?
「あれ? 間違ってましたか?」
俺は苦笑することで答える。茜ちゃんなら、わかるだろう。
「じゃあ、また」
「うん」
俺はもう一度お辞儀をすると、涼宮家を後にした。
角を曲がるまで、遙は手を振っていた。
帰り道、俺はこの先のことを考えていた。
遙とのこと、自分のこと……。
いろんなことを考えながら、ふと空を見る。
なんだか、星が綺麗だな。
あの日から、俺は星が綺麗だってことも忘れていた気がする。
そうだ、遙と星を見に行くのもいいな。
12月の星座が一番綺麗だって、誰かが言ってたし。
「ま、とりあえずは、自分の出来ることをするしかないよな」
とりあえず、少しずつ自分が出来ることをしていこう。
まだ、時間はたくさんあるんだ。
なんか、急に走りだしたい気分になったな。
よし、家までダッシュだ!
満天の星空の元、俺は走り出す。
期待も不安も、今だけは忘れられるように。
今はただ、遙のことだけを想えるように。
end
君が望む永遠 サイドストーリー#2 あとがき
一応、正統派の話を書いてみました。孝之視点は、自分がプレイヤーだっただけあって、書きやすいです。
本当は、日常のドタバタをショートストーリー形式で書いていこうと思ったのですが、冒頭で遙が「大学に行きたい」と言い出したため、こんな感じになってしまいました。
まだまだ書きたいことはたくさんある(『遙、すかいてんぷるへ行く』とか『遙、孝之の部屋へ行く』とか『孝之、就職活動する』とか)ので、稚拙な文章ながらちまちまと書いていきたいと思います。
できたら、一言でもいいので、感想などいただければ幸いです。
2001.10.11 揺れる有楽町線の車内で ちゃある(charl@pos.to)
俺が望む後書き(ver2.00)
新年を前にして、加筆訂正しました。水月との回想を入れたことが、大きな変更だと思います。
ああ、上の後書きを読むと、達成率67%(孝之就職ネタだけ書いてない)ですね(笑)いつか書けると良いな、と。
では。
2002.01.08 ちゃある