幕間 祭りの前   #1 孝之(3) 「へえ、水泳部の監督なんだ」 「うん。なかなか楽しいよ」  ここは喫茶店『WILD LIFE』。まだ祭りには少し早いし、茜ちゃんとの 待ち合わせもあるんで喫茶店でお茶することにした。  今聞いたのは、水月の今の仕事の話。何でも先輩の薦めで、高校の水泳部で監督 をしているとのこと。 「ま、それだけじゃやってけないんで、スイミングスクールのインストラクターも 続けてるんだけどね」  水月は苦笑する。  そっか、また水泳始めたんだな。 「よかったね、水月」  俺の隣で、遙が微笑む。 「そうなの……かな」 「そうだよ。だって水月、水泳好きだったもん」  まるで自分のことのように嬉しそうな、遙の顔。 「そう……だな。良かったな水月」 「孝之……」  一瞬だけ、水月の瞳の色が暗くなる。 「今、楽しいだろ?」 「……そうだね。チョット忙しいけど、充実してる」  優しい笑み。  前よりも大人になったような、そんな感じの。  けれど、その笑みはすぐに心配そうな表情に変わる。 「……気に、してた?」  その質問は、俺の心を真っ直ぐに射抜く。  水月はわかってたんだ。  俺が水月に対して抱いていた、二つの罪悪感を。  一つは、あれだけ俺の側にいてくれた水月を裏切るような形で、遙を選んでしまっ たこと。  そしてもう一つは───。  ───俺が水月から、水泳を奪ってしまったんだということ。 「え? なにが?」  俺は質問の意味が解らないとでも言うように、問い返す。 「……ううん、なんでもない」  水月はすっと、俺から視線を逸らした。  空気が、重くなる。 「……そうそう。今年の一年にさ、いい子がいるのよ。技術はまだまだだけど、磨 けば光りそう」 「そうか……速瀬ならきっと、育てられるよ」 「うん、水月なら出来るよ」 「ふふっ、ありがと」  優しく笑う。  沈んだ空気を吹き飛ばす、とまでは行かないけれど。  それでも水月なりに、気を使ってるんだ。 「そうだ水月……猫、どうした?」 「猫?」  遙が不思議そうな顔をする。 「猫って?」  慎二が水月に尋ねる。 「ああ……猫飼ってるんだ、あたし」  水月も不意の話題に驚いたようだったが、笑顔で慎二に答える。 「それにしても良く覚えてたね。あたし、孝之にはあまり話してないと思ってたけ ど」 「俺も今、不意に思い出したんだ。そう言えば、と思ってさ」  多分水月が話したのは、二、三回だと思う。  けれど昔話ってのは、そんな他愛ないことを思い出すもんだ。 「うん……元気だよ」 「そっか。猫をそれだけの間育てられるんだったら、選手くらい楽勝だよな」 「……ウチの生徒と猫を一緒にしないでよ……」  あきれ顔の水月。 「あははっ、孝之くんらしいね」 「……そうなのか?」  遙の言葉に、慎二が首を傾げる。 「そう言えば遙って、大学生なんだっけ?」  水月が話題を変える。 「うん……やっぱり、勉強したかったから」 「絵本作家……だっけ?」 「うん……孝之くんは『理屈じゃないだろ』って言ってくれたけど、私やっぱり、 理屈も知っておきたいの……」 「ふーん、ちゃんと考えてるんだね」 「水月も慎二も、遙にサインもらうなら今のウチだぜ? 遙は未来の大作家様にな るんだからな。今なら俺のサイン付きだ」 「「孝之のサインは、いらない」」  水月と慎二が、まったく同時に口を開いた。 「……なんだよ、ハモることないだろ?」  俺の言葉がおかしかったのか、ハモったこと自体がおかしかったのか、ともあれ 俺達は、誰ともなく笑い出した。  と、不意に遙のポーチからメロディーが流れる。 「あ、茜だ」  慌ててポーチから携帯を取り出す遙。 「もしもし……うん、今着いたの? うん。じゃあ私たちも出るね……うん、じゃ あ」  ピッ。 「茜、駅に着いたって」 「あ、茜も来るんだ」 「ああ……なんでも恋人連れて来るって、言ってたけど」 「え? 恋人?」  水月が驚いた顔をする。 「そんなに驚くことはないだろ? 茜ちゃんだってもう大人なんだし」 「そっか、そうだよね……どんな人なんだろ?」 「茜の話だと、小説家らしいけど」 「へえ、じゃあ結構涼宮と話が合ったりするんじゃないか?」  茜ちゃんの恋人の話で、急に話が盛り上がる。 「おいおい、話は後にして行こうぜ。暑い中、茜ちゃんを待たすのは悪いだろ」 「そうだったな、悪い」  慎二が謝り、そのまま立ち上がる。 「とりあえず俺が払っておくから、先に茜ちゃんのとこ行っててよ」 「お、慎二サンキュ」 「孝之には後で、涼宮の分と合わせて請求するからさ」 「……おう」  慎二を残して、俺達は喫茶店を出る。 「孝之……」  階段で、水月が俺を小声で呼んだ。 「ん?」  俺は立ち止まり、水月に顔を向ける。 「……もう、気にしなくていいよ。あたしは、大丈夫だから」  ああ……。  さっきの、ことか。 「心当たりが多すぎてどれだかわからんが、とりあえずサンキュ」  俺は冗談混じりに軽く笑みを返す。  そう言ってくれたことが、嬉しい。  けれど。  きっと俺は最後まで、この罪を悔やんで生きて行くんだ。  遙にしたことと、同じように。  その痛みを忘れない限り。  俺は、強くなれる気がするから。 「水月、孝之くん、なにやってるの?」  階段の下から俺達を呼ぶ声。 「ああ悪い。すぐ行くよ」  大きめな声で遙に答える。 「さ、行こう。遙が待ってる」 「うん」  俺と水月は、同時に階段を駆け下りた。