雨がやんだら(Ver1.03)


 雨が降っていた。
 この雨がやんだら、彼女はこの部屋を出ていく。三年間、俺と二人で暮らしたこの部屋を、俺だけをここに残して。

「行くのか?」
 俺は尋ねた。
「うん……」
 ほんの少しの間の後、彼女はゆっくりとうなずく。

 もう何度、同じ事を尋ねただろう。
 何度尋ねても、答は同じなのに。

  *

 俺は売れない小説家で、彼女は売れないダンサーだった。お互いに芽が出ない同士だったから、俺達は惹かれていったのかもしれない。
 俺は、小さな出版社からときどきくる小さな依頼をこなしながら、いつか世に送り出す予定の大作を書き、彼女はコンビニのバイトをしながら、ダンスのレッスンと、オーディションに通っていた。
「俺たちが有名になったら、俺はお前を主人公にして物語を書いてやるよ」
「うん、期待してるね」
「まあ、物語のほうは今からでも書けるが、問題は俺達が有名になるかだな」
「それは言わない約束でしょ、おとっつあん」
「あははは」
 お金は無かったが、夢はあった。そして、俺には彼女がいて、彼女には俺がいた。だから俺達は、幸せだった。
 石油が買えなくてストーブが使えない冬の夜は、布団の中で抱き合って過ごした。夏の蒸し暑い夜は、どうせ取られるものはないからと、窓を開け放って寝た。俺達はそんな『優雅な貧乏人』だった。
 それが変わったのは、俺が書いた小説が売れ始めてからだった。
 珍しく若者向けに書いた、甘い青春小説。何気なく、大手出版社の小説大賞に応募した作品が、気が付けば銀賞に輝き、自分でも驚くくらいに意外な売れ行きを見せたのだ。
 賞金で、俺達は初めて二人で焼き肉を食べた。
「私、特上カルビなんて、初めてかも」
「俺、食べ慣れてないから腹壊すかも」
「あ、それはありそう」
 なんて言いながら二人で十人前を平らげた。
 『優雅な貧乏人』から脱出すると言う頃、次の転機は彼女に訪れた。小さな舞台の脇で踊っていた彼女が、ある有名な演出家の眼にとまったのだ。
 そして彼女は、アメリカ行きを薦められた。多少の援助をするから、アメリカで勉強をするべきだと言われた。
「で、行くのか?」
 俺は彼女からこの話を聞いた後、しばらく間を置いてから尋ねた。
「行くって言ったら……あなたは引き留めるのかしら?」
 不思議な問いかけだった。尋ねたのは俺の方だったのに。
 俺は少し考えるそぶりを見せた後、不意に口を開いた。
「俺は……お前が『行かない』と言う方が恐いな」
 俺にも不思議な答だった。どうして俺は、そういう回りくどい言葉を彼女に返したのだろうか。
 でも、彼女には通じたようだった。彼女は少し寂しげな顔をすると、呟くように俺に向かって言った。
「……私、行ってくるわ」
「ん……」
 この時の俺も、寂しそうな、悲しそうな顔をしていたに違いない。

  *

 まだ雨はやまない。
 まるで俺達が辛い時間を過ごすのを喜ぶかのように。

「どうする……送って行こうか」
 俺の言葉に、彼女は小さく首を振った。
「それは……ダメ。あなたは、私を空港へは連れていってくれない。……きっと、違うところへ行ってしまうもの」
 それは、俺の心の奥底を見すかしたような言葉だった。
「そして、私もそれを望んでしまう……ダメよ」
 彼女も悩んでいるのだ。まだ心の底に、俺と過ごしたがっている自分がいる。

 俺と同じように。

 でも、俺達は夢を選んだ。彼女は俺の夢に協力してくれた。俺も、彼女の夢を妨げる訳にはいかない。


 雨が小降りになってきた。空も少し、明るくなる。
「もうそろそろだな」
「ん……」
 この雨がやんだら、彼女の顔は見られなくなってしまう。
 もしかしたら、もう二度と会うことがないかもしれない。
 そう思っても、俺は彼女の顔を直視する事が出来なかった。
 彼女を見つめてしまったら、彼女を引き留めてしまいそうだったから。
 強く抱きしめて、二度と離さなかっただろうから。


 雨が、やんだ。
「行くのか?」
「うん」

 もう何度同じ事を尋ねただろうか。
 けれど、これが最後だ。
 間違いなく、これが最後の問いかけだった。

「いつでも、戻ってこいよ」
「うん」
「俺、待ってるからさ」
「うん」
「頑張れよ」
「うん」
「暇があったら連絡よこせよ」
「うん」
 彼女は、俺の言葉にただうなずくだけだった。
「それと……」
 俺は一度言葉を区切ってから、再び口を開いた。
「夢が叶うまでは、ここに戻ってくるな」
「……うん」
 彼女は俺に背中を向けて、振り向いた。
「じゃあね」
 彼女は背を向けたまま、そう言って歩き始めた。
 俺はそれを、黙って見送る。
 彼女の姿が見えなくなるまで、俺はずっと見送っていた。

 いつのまにか、雲間から太陽が差し込んでいた。


 もう、彼女はここにはいない。

 いるのは、俺だけだ。

 俺はため息をつくと、机に向かい、ペンを取った。

 END



1996.02.08〜1996.02.13
Ver1.01:1996.03.10
Ver1.02:2001.10.10
Ver1.03:2001.11.15

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