紗夜と僕 4





  +

「……暑いな」
「……暑いのだー」
 二〇〇二年、八月。

 ───クーラーが、壊れた。

 ここんとこの猛暑で、俺は電気代も考えず(いや、頭をよぎったが考えるのはやめにした)クーラーを使いまくった。
 困ったことに紗夜は学校が休みだったりするので、昼間でもクーラーは稼働することになる。
 結果。
 家を出るときに実家から奪ってきたオンボロクーラーは、俺の夏休み突入とともに過労によって死亡した。

「……暑いな」
「……暑いのだー」
 だらだらと汗を流しながら、俺と紗夜は何度同じことを呟いただろうか。
「紗夜ー、麦茶」
「まだ冷えてないのだ」
「……むう」
 困った。
「……コンビニでも行くか」
「……うん」
 こうして、俺達の行動は決まった。

「ふあー」
 自動ドアが開くと、そこは楽園だった。
 なにしろ、クーラーが効いているのだ。
 俺と紗夜はとりあえず雑誌コーナーへと向かう。
「……うーん」
「はうー」
 困った。
 ここにある雑誌は、昨日二人ともほとんど読んでしまっていた。
 仕方なく、同じ本を読み返す。
「うーん……」
「はうー」
 間が持たない。
 しかし、家は暑い。
 さーて、どうすっかな。
「なあ、紗夜」
「はう?」
「アイス、買って帰るか」
「うんっ」
 紗夜は元気良く頷いた。

「だからって、部屋が涼しくなるわけじゃないんだよな」
「同感なのだ」
 気がつけば、買ったアイスは二人で(溶けてしまうからと理由を付けて)帰る途中に食べてしまった。
 と、いうことは待っているのは蒸し暑い俺のアパート。
「な、プールでも……」
 行こうか、という言葉を、俺は慌てて飲み込んだ。
 紗夜は、プールが好きではない。
 では海はどうかというと、海もダメだ。
 それは、今も紗夜が長袖のシャツにGパンをはいていることに理由がある。

 紗夜は、人前で肌を見せることを極端に嫌うのだ。


  ++


 あれは、五月だったか。
 仕事から帰ってきた俺は、ただ何も考えず、トイレに行こうとドアを開けた。

『入浴中』と書かれたプレートを見もせずに。

 ドアの向こうには、紗夜が立っていた。
 ちょうどバスタオルで頭を拭いていたのか、全裸にバスタオルという姿で。
 しばし呆然としていた俺だが、やがて洗面所の鏡越しに紗夜と目が合った。
「きゃあっ」
「ごっ、ごめんっ」
 俺は慌ててドアを閉める。
 けれど、紗夜の裸身は、しっかりとまぶたに焼き付いていた。

 ───あの、背中が。

「……おとーさん」
「ごっ、ごめん紗夜。わざとじゃないんだわざとじゃ」
 服を着て出てきた紗夜に、俺は土下座して謝った。
「……ハダカ、見たのだ?」
「……うん」
 嘘は、つけない。
「そうなのだ……」
 顔を上げると、紗夜はひどく悲しげな目をしていた。
 理由は、何となくわかった。
「紗夜……良ければ、話してくれないか?」
 紗夜はしばらくためらった後、コクンとうなずいた。


  +++


 ───紗夜は、ずっとお父さんとお母さんに、虐められてきたのだ。
 その一言から始まった紗夜の話は、話させてしまった自分を、ひどく後悔させるものだった。
 紗夜は小さい頃から、実の両親に虐待を受けていたらしい。
 食事もろくに与えられず(体が小さいのはそのためかもしれない)、普段の格好からは見えないところにタバコの火を押しつけられたり、叩かれたりしていた。
 そしてあるとき、突然捨てられてしまったのだ。
 そのあたりの詳細は省くが、紆余曲折あって叔父に引き取られた紗夜は、叔父夫婦の愛情を受けて元気になったが、身体の傷は残ったままだった。
 特にひどいのが、背中の火傷だ。
 紗夜はこれで、命を落としかけたらしい。
 確かに俺が見た紗夜の背中は、ひどくだたれていた。
 紗夜は話しながら、パジャマの袖をまくって見せた。そこには痣や切り傷が痛々しく残されていた。
「これでも昔に比べれば結構治ったのだ」
 紗夜の言葉に、俺は言葉が出なかった。
「……ごめんな」
 そこまで話させたことが随分ひどいことだと思い、俺は謝った。
「いいのだ。おとーさんには、いつか話そうと思っていたのだ」
 紗夜はそう言って、俺に笑みを見せた。
 少し無理した笑み。
「……ごめんな」
 その笑みがひどく悲しげに見えて、俺はもう一度謝った。


  ++++


「おとーさん、暑いのだー」
「暑いな」
「はうー」
 うーむ。
「……水風呂でも、入れば?」
「はう?」
「風呂。お湯張りっぱなしだろ? 温くなってて多少気持ちいいかもしれないぞ」
「それは名案なのだ」
 紗夜はぽんっと手を叩く。叩いてから、不意に上目遣いに俺を見た。
「……おとーさんも?」
「ばっ、ばかかお前わっ」
「冗談なのだっ」
 クスクスと笑う紗夜。
 ……どこでそんな冗談覚えてくるんだ。
「でも、二人で水着で入ればいいのだ」
「水着……ねえ。紗夜、持ってるの?」
 人前で肌を見せない(学校の体育も、許可をもらって長袖長ズボンで参加している)紗夜が、水着を持っているとは意外だ。
「……一応持ってるのだ」
 外で遊ぶのが好きな紗夜のことだ。本当は、海やプールでみんなと遊びたいのだろう。
 けれど肘から上、膝から上には、まだ無数の傷が残っている。
 この歳でその傷を見せて歩くのは、勇気がいるはずだ。
「じゃ、せっかくだから水着着て入れば? ま、さすがに俺は遠慮するけど」
「え? おとーさんはハダカなのだ?」
「……一緒に入るのを遠慮するって言ってんだよ」
 そう言って俺は紗夜の頭をコツンと軽く叩いた。
「えへへ」
「俺は電気屋で扇風機買ってくるから。だからその間入ってればいいだろ」
「了解なのだー」
「あ、あと」
「はう?」
「終わったら風呂掃除もよろしく」
「あうー」


  +++++


 俺は車を走らせ(車の中でクーラーを全開にするのが一番涼しいと悟った。エンジンかける前の車内は最悪だったが)、近所の量販店で扇風機を購入した。
 一応風量と静音性を重視したが、結局は財布の中身との相談になるのが悲しいところだ。
「クーラーも買わないとならないかな……」
 そうは思っても、ボーナスの残りはもうない。今のクーラーの修理見積もり次第だな、と思い、俺は電気屋を後にした。

「ただいまー」
「おかえりなのだー」
 俺の声に紗夜は堂々と水着で出てきた。彼女が着ているのは、普通のスクール水着。
「ふむ」
 出るとこは出てなく、引っ込むとこはそれなりに、か。
「……小学生みたいだな」
 小声で呟く。
 それよりも、やはり四肢に残る虐待の後が、痛々しい。
 よくこれだけの傷を受けて、障害が残らなかったものだと思う。
「風呂、洗った?」
「もうピッカピカなのだー」
 水着を着たまま、楽しそうな紗夜。
「とゆーわけで、おとーさんも一緒に入るのだ」
「お、俺も?」
「一人ではしゃいでも虚しいのだ。やっぱりボケにはツッコミが必要なのだー」
「誰がツッコミだ」
 ビシ、と手を伸ばす俺がツッコミだ、と自分にツッコミを入れる。
「とりあえず、俺は遠慮しとく。俺は新兵器の威力を試さねばならぬのだ」
「はうー」
 つまんないのだー、と駄々をこねる紗夜を後目に、俺はさっさと扇風機を箱から出す。
「おとーさーん。遊んでー」
「ってか、水着脱げ。いいかげん」
「おーふーろーでーあーそーぶーのー」
 ぐいぐいと俺の手を引く紗夜。
「だあっ、一人で遊べっ」
 暑さと鬱陶しさから、俺は思わず叫んでしまった。
「……だって、一人じゃつまらないのだ」
 紗夜は不意に沈んだ声を出す。
 い、言い過ぎたかな。
「紗夜も本当は友達と一緒に、海やプールで遊びたいのだ。でも紗夜はこんな身体だから無理なのだ」
「紗夜……」
「だからせめて、お風呂でおとーさんと遊びたかったのだ。お風呂は狭いけど、でも、でも……」
「わかったわかった。もう言うな」
 目に涙を浮かべた紗夜を、そっと抱きしめる。
 濡れた紗夜の身体が、少し冷たい。
「俺が何とかしてやるから」
「……遊んでくれるの?」
「いや、それは違うけど、もっとすげえことを」
「やったあっ」
 今度は紗夜から俺に抱きついてきた。
「あははは、内容も聞かない内に喜ぶなよ」
「おとーさんが考えてるのだ。きっとすごいいいことなのだ」
 マズイ、妙なプレッシャーが。
 と、それに今の二人はちょっとマズイシチュエーションじゃないだろうか……。
「ケンイチー、紗夜ちゃーん、いるー?」
 そんな声とともに、彼女は玄関のドアを開けた。
「……なにやってんの?」
 スクール水着姿の紗夜と抱き合っている俺を見て、アキコが冷ややかな声で言った。
 紗夜の傷のことはアキコにも話してある。だからここで見てるのは、紗夜が『スクール水着』という点だけだ。
「えーと……」
 アキコも誤解だって、わかってんだろうけどなあ……。
 俺が続きを思う前に、アキコの鉄拳が飛んだ。


  ++++++


 その夜。
「着いたぞ」
「はうー」
 そこは、都内のスイミングスクールだった。
「大きいのね」
 アキコが呟く。
 俺は携帯を取り出し、電話をかけた。
『もしもし』
「あ、ちゃあるですけど」
『あ、えーと、準備のほうはできてるから、右手の通用口から入って』
「了解」
 俺は電話を切ると、紗夜とアキコを促して通用口へと向かった。

「悪いね、急な話で」
 俺達を入り口で出迎えてくれたのは、二十歳位の綺麗な女性だった。
「ま、少しは世話になったからね」
 彼女は肩をすくめると「どうせいつもあたしが使ってるんだし」と付け加えた。
「はう、どなたなのだ?」
「ああ、俺の友達のミツキさん。こっちは彼女のアキコさんと」
 一瞬どう言おうか迷った。
「娘の、紗夜」
 が、そう言えば説明してるんだっけと思い、続けた。
「はじめましてなのだ。ミツキさん」
「よろしく、紗夜ちゃん。……と、後ろが噂の彼女ね」
「……ケンイチ、どんな噂してんのかなあ?」
「いや、バッファローマンも小指で倒……はぶぅっ」
 力道山もびっくりな空手チョップが、俺の脳髄をずらす。
「どうもはじめまして。アキコです」
「どうも、ミツキです」
「……おとーさん、生きてる?」
 床で痙攣している俺を後目に、笑顔で挨拶をかわすアキコとミツキさん。
 なんつーか。
 似たもの同士かもしれん。


  +++++++


「自由に泳いでいいよ。電気はつけられないけど」
「うわあ、嬉しいのだー」
 暗いが誰もいないプールを見て、紗夜は飛び上がって喜ぶ。
「あ、更衣室はあっち。……男は向こう」
 紗夜と一緒に行こうとする俺を見て、ミツキさんはビシッと反対方向を指した。
「はーい。と、紗夜、ちょっといいか?」
「はう?」
 俺は紗夜の前でしゃがみ込み、紗夜を見上げるような体勢をつくる。
「お前が嫌ならば、ミツキさんにはここを出ていってもらおうと思う。一応了解はもらってるしな。ただ一つ言って置くけれど、俺の友達でお前の身体を見てけなしたり、笑ったりするような奴は一人もいない。これだけはわかってほしい」
 小声ながらも、しっかりと紗夜の目を見て、俺は言った。
「どっちを選ぶ?」
「……ミツキさんも、一緒がいいのだ」
「そっか。大丈夫だな?」
「おとーさんもいるし……大丈夫なのだ」
「よしよし」
 俺は嬉しさのあまり紗夜の頭をくしゃくしゃと撫でる。
「はうー」
「ミツキさん。アキコに水泳教えてよ。俺最初は紗夜と遊ぶから」
「オッケー。じゃ、着替えに行こうか」
「はいなのだー」
 嬉しそうに更衣室へと向かっていく三人を見送って、俺も男子更衣室へと向かった。


  ++++++++


「よーし、じゃあ両手持ってるから、バタ足な」
「はいなのだ」
 俺は紗夜の両手を持ってゆっくりと引っ張る。紗夜は俺の手をしっかりと握り、懸命にバタ足をする。
「よしよし、これなら一人でも泳げるな」
 まともに泳げない自分が泳ぎを教えるってのもどうかと思うが、全部をミツキさんにお願いするのもどうかと思うので教えはじめた。しかしあっと言う間に、紗夜はほとんど泳げるようになってしまった。
「飲み込みが早いのね。頑張れば県大会クラスには行けそうだけど」
「あはは……それは無理ですのだ」
 ミツキさんの言葉に照れる紗夜。
「んじゃ、後はこのミツキちゃんが紗夜ちゃんをしごいちゃおうかな」
「ん、よろしく。俺はアキコと遊んでるから」
「またあとで、なのだ」
「おう」

 紗夜はミツキさんの言葉に従って懸命に練習した。俺は俺で無謀にもアキコに水泳勝負を挑み、『五十メートル泳ぎ切れなかった』という無様な敗北を喫した。
「これで夕飯はケンイチのおごり〜」
「はいはい。……これで四人分か……」
「四人?」
「ミツキさんには、夕飯のおごりでここを使わせてもらってるんだ」
「あ、そういうこと。……ところで」
「はい?」
「ミツキさんとは、どこで?」
 あ、アキコさん目がちょっと怖いですよ?
「ん、ネットで。まあ、俺の小説を読んでもらったのがきっかけだけどさ」
 俺は「ちゃある」と言う名前で自作の小説をWeb上に公開している。そんな小説の感想を、メールでもらったのが最初だった。
「まあ気がつけばチャットしたりカラオケ行ったり……今日はアキコを紹介できるちょうどいいチャンスだと思って」
「……ケンイチの周りって、不思議な関係の友人多いよね」
「……そうか?」
 首を傾げる。そうだろうか?
「そんなこと言ったらお前だって、元は『俺の友達の部活の後輩』だろ? 変な縁だと思わないか?」
「そう言われればそうかも」
「な、関係なんてそんなものさ」
 俺はそう言って、アキコに笑いかけた。

「ね、最後にさ。ミツキさんの泳ぎ、見せてよ」
「え? いいよいいよ。もう現役じゃないし」
「あうー、紗夜もミツキさんの泳ぎ、見てみたいのだー。今後の参考にしたいのだー」
「そう? ……じゃ、少しだけ、ね」
 ミツキさんはそう言って、すっとプールに飛び込んだ。
「綺麗ね……」
「綺麗なのだ……」
 アキコと紗夜が、同時に呟く。
 例えば名刀は切れ味もさることながら、美しさも兼ね備えてると言う。
 ミツキさんの泳ぎは、まさにそれだった。
 ひとかきごとに進む身体。その動きは、ごく自然で。褒めすぎかもしれないけれど、俺はこんなに美しい泳ぎは初めて見たと思った。
「ふうっ」
 あっと言う間の一往復。プールから上がったミツキさんは窓から差し込む月明かりに照らされ。

 あまりにも、綺麗だった。

「……こら、見とれてるんじゃない」
「あっ、ごっ、ごめ……」
 アキコの言葉に我に返る。
「ま、気持ちわかるけどねー。彼女、美人だし」
「うん。ま、ちょっと筋肉がね。あまり筋肉質の女性は好みでがはあっ」
「筋肉質で悪かったわねっ」
 光の速さでたたき込まれたチョップが、俺の脳髄を揺らす。
 こ、この破壊力……。

 ───アキコとほぼ同等だ。

 やはり、似た者だったか……。


 +++++++++


「どーもごちそうさま」
「いや、こっちも助かったよ」
 夕飯はファミレスで済ませた。ミツキさんはさすが運動しているだけあって、俺以上に食べてくれた(俺のおごりだったからかもしれないが)。アキコや紗夜も運動後とあって、いつもより多く食べていたかもしれない。ま、おごる側の俺にとっては不幸なことなのであるが。
「ミツキさん。今日は楽しかったのだ。こんなに泳いだの、生まれて初めてなのだ」
「そっかそっか。楽しかったならよしよし。また遊びに来るといいわ」
「わあい。嬉しいのだ」
「ま、あんまりやるとあたしが怒られちゃうから、あまりできないけどね」
「ホントに、ありがとうな」
「ううん。ちゃあるにはこの間、愚痴聞いてもらったしね」
「……帰る方向が同じだったから、だけどな」
「でも、感謝してるんだ……だから、いつか借りを返そうって、思ってた」
 そう言ってから、ミツキさんは微笑む。
「ま、またみんなで遊びに行きましょ。今度はカラオケでも」
「……このメンバーで?」
「何その顔は。ちゃあるも行くよね?」
 ……俺のおごりでですか?
「はいさっさと返事するっ。3、2、1、ハイ」
「ええもう、是非みんなで」
「よしよし」
「……ケンイチ、ホントに女性に弱いのね」
 お前に似てるからだよ。攻撃力が。
 ……とは言わず。俺はアキコの言葉を受け流す。
「じゃ、またね」
「ミツキさん。バイバイなのだー」
「ハイ、紗夜ちゃんもね。それじゃ」
「気を付けてな」
 俺達とミツキさんは、そこで別れた。
「……いい子、だね」
「そうだね。ちょっと前にいろいろあったらしいけど、今ああいう笑顔が出来るなら、いいんじゃない?」
「またミツキさんと遊びたいのだー」
「そうだね。また、遊ぼう」
 俺はそう言って、車をスタートさせた。


 +++++++++


「おとーさーん。遊ぶのー」
 水着姿の紗夜が、俺の袖を引っ張る。どうやら『ひとり水風呂』に飽きたらしい。
「俺は忙しいんだよ。小説書かなきゃならないしー」
「後にするのだー。一緒に遊ぶのだー」
「……またミツキさんにお願いしようかなあ」
 俺はTシャツの袖が伸びていくのを感じながら、ため息をついた。


 おわり。



 俺が望む後書き

 はい、紗夜と僕の4作目をお送りいたします。今回のゲストはバレバレな感じでいいでしょ?(笑)
 こんな感じで、チマチマとゲストを絡めていこうかな、と思います。
 では、また次の作品で。

 2002.09.05 紗夜の幼児化が気になる ちゃある。

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