忘れ物(Ver2.10)


「ちょ、ちょっと待てっ。誤解だっ」
 私はあいつが必死に叫ぶ声を背中で聞きながら、通りを駆け抜けた。
「まったく、何が誤解なのよっ」
 だったら、隣にいた女の子はなんなのよ。と思う。
 歳は……中学生かなあ。随分と可愛い顔をしていた。
 もしかしてあいつってばロリコンだったのかしら。私も結構童顔って言われるし。
 なーんて考えてもしょうがない。
 わかっている事は、ひとつ。
 あいつが、他の女の子とつきあってたってこと。
「あーっ、思い出すと腹が立つ」
 そう言いながらも、私はいろいろなことを思い出していた。

 *

 あいつと出会ったのは、高校に入ったばかりの頃だった。
 といっても、単にクラスが同じだっただけで大したことはないんだけど。
 それに、一年の頃は別に、何とも思っていなかった。
 付き合い始めたのは二年の二学期から。
 文化祭の実行委員に、あいつと一緒にやることになって。
 いろいろあったけど、なんとか文化祭も無事終わって。
 みんなが打ち上げ会場に向かった後、二人で後片付けしてた時に、あいつがいきなり土下座して来たんだっけ。

『ぼっ、僕と付き合ってください!』

 一瞬あっけに取られた後、大笑いしてしまった(あいつには悪いと思ったけどね。だって土下座の上に『僕』だよ?)。
 あんまりおかしいから、OKしてしまった。
 あいつの良さは、文化祭実行委員をやってた時に、理解してたから。
 優しくて、責任感があって、何よりも、いつも自分が一番楽しもうとしてた。
 自分から進んで辛い仕事を引き受けてた。
 ある時、「どうしてそんなに頑張るの?」って、聞いた事がある。
 そしたら、「なんで? だって当然じゃん。俺が一番楽しみたいんだから、一番頑張らなきゃ」だって。
 なんか、ずれてるのよね。でも、いい人だった。
 何度か一緒に遊びに行ったりしている内に、いつのまにか、私の中はあいつの事でいっぱいになってた。
 毎日が待ち遠しかった。
 幸せって、こういうことなんだって思った。

 でも、三年の時、クラスが変わってしまった。
 あいつは理系で、私は文系だったから。
 当たり前と言えば当たり前なんだけどね。

 それから、突然のように一緒にいる時間が減っていった。
 帰り道が反対方向なので、私達は一緒に帰ることがない。そのせいもあってか、ときには一日中顔を会わすことなく終わってしまうこともあった。
 毎晩かけてきてくれた電話も、ほとんどなくなった。たまにこっちからかけてみても、出かけていることがほとんどだった。
 予備校に行っているのかとも思ったが、あいつは始めから専門学校を志望していたから、そんなはずはない。
 そんなときだった。
 あいつを見かけたのは。


 私は参考書を買うために、駅前の本屋へ行った。二、三種類の参考書の中から、三十分かけて一冊を選んだ。
 レジでお金を払って出たとき、ロータリーの反対側を女の子と歩いているあいつを、見てしまった。
 始めは、妹かと思った。でもあいつには妹なんかいない(お姉さんがいるけど、お姉さんは五歳上だし、何度か会ったことがあるから、見間違えたりしない)。
 一体誰なんだろうと思ったけど、とりあえず『見間違い』という線で妥協した。
 最近、視力も落ちてきてたしね。
 学校へ行っても、あいつには聞けなかった。電話でも、そんな話題は出せなかった。
 そしてあいつも、そんな事は話さなかった。
 そのまま忘れようとした時、再びあいつが女の子と歩いているのを見た。
 この前と同じ女の子。

 もう、これは、見間違いなんかじゃない。

 それでも、声がかけられなかった。
 あいつの目の前に行けば、すべてが解決するはずなのに。
 まだ、自分の中の何かが私に言い聞かせていた。
『あれは多分、偶然会ったんだ。ちょっとした知り合いなんだ。だって、あいつの彼女は私だもの』
 そう、ただの偶然。二回までならきっと、偶然なんだ。きっと……。

 そして、今日が三回目。


 もう我慢ができなかった。あんな可愛い子と会っていながら、そんな事をおくびにも出さないあいつに。そして、あんな奴を好きになっていた自分に腹が立った。
 私はすたすたとあいつの前に歩いて行った。
「よ、よお……なんだ、そんな恐い顔して」
 お前はぁ……そんなぬけぬけとぉ……。
 パァンッ。
 乾いた音が駅前の通りに響いた。
「さよなら」
 私は頬を押さえて唖然としているあいつに言った。
 自分でも信じられないくらい、冷たい声で。
 そして私は振り返ると、通りを駆け出していた。


「ただいまっ」
 私は家に帰るなり自分の部屋に飛び込んだ。
 そして、ベッドの上にごろん、と仰向けに寝転んだ。
「あーっ、すっきりした。これで明日から、頑張って受験勉強出来るよねー」
 自分しか居ない部屋で、独り言。
 そして、ほんの僅かの、沈黙。
「……なんでよぉ」
 沈黙を壊したのは、やはり自分の口。
「なんで……なんで涙が出るのよぉ……」
 目の前がにじんで、天井がぼやけて見えた。
 そしてすぐに、何も見えなくなった。
「なんで……」
 私は、仰向けになったまま泣き続けた。
 そして、いつのまにか眠ってしまっていた。

 *

 次の日。
 その日は朝から快晴だった。
 丁度日曜日だった事もあり、私は出かける事にした。
「ちょっとした、傷心旅行かな」
 そんな独り言が言えるくらい、私は元気を取り戻していた。
「それに、今日は私の誕生日だしね」
 あんまり関係ないかな? でも、自分で自分の誕生日を祝うのも良いでしょ。
 そんなわけで、私は鞄を片手に家を出た。


「うん、海だな。やっぱ」
 駅の切符売り場でしばし悩んだ私は、そうつぶやいた。やっぱ傷心旅行には海が付き物だと思うし。
 私鉄の小さな駅であるここからでは、目的地までの切符は買えない。とりあえず都内の駅までの切符を買う。
 階段を降りると、丁度上り電車が着いたところだった。私は慌てて電車に飛び乗る。
 プシュー、というドアの閉まる音がして、電車は走り出す。
 車内は、シートがほとんど埋まるくらいの混みぐあいだった。しかたなく、扉の脇に寄りかかるように立つ。親にねだったCDプレイヤーで、音楽を聴きながら。
 今日入れてきたのは、矢井田瞳。
 流れる車窓と、彼女の風のような楽曲が、妙にマッチする。
 そんなところを、気に入ってるんだけどね。


 そして三十分後。電車は終点のホームに滑り込む。
 ここでJRに乗り換える。
 そして四つ目の駅で、再び私鉄に乗り換える。
 今度は一時間くらい。さすがに今度はシートに座る。行く前から疲れてもしかたないしね。
 しばらく外の景色を眺める。
 時間と共に、外の景色が都心から郊外へと移って行く。
 その移り変わりが、なんかいい。
 そうして楽しんでいる内に、終点に着く。
 本当はこの少し前で降りてもよかったんだけど、今回はめんどくさいのもあって終点まで来てしまった。
 少し歩けば、そこはもう海だ。
「うーん」
 私は海を目の前にして大きくのびをする。春の海っていうのもなかなかいいね。

 人もそんなに多くないし。

 私はゆっくりと海沿いの道を歩く。潮の香りがここまで届いてくる。
「やっぱ、来て良かったな」
 ここなら、何もかも忘れられそうな気がした。
 悲しい事も、海に流してしまえそうな気がした。
「よし、砂浜を歩くか」
 そうつぶやくと、私は砂浜に降りた。

 しまった。サンダルを持ってくれば良かった。
 それは私が砂浜に降りて、最初に思った事だった。
 そうは言っても、駅に着くまで目的地も決めてなかったんだからしかたないけれど。
 靴が砂でじゃりじゃりになるのが嫌なので、私は思い切って靴を脱いだ。
 当然、靴下も脱ぐ。
 足の裏に感じる砂の感触が、妙にくすぐったい。
「キュロットスカートで良かった。Gパンとかじゃ、海に入れないものね」
 独り言を言いながら、私は波打ち際を歩く。
 時々寄せる波が、私の足を濡らして行く。
 さすがにまだ水は冷たい。
 それでも、何故か再び波の元まで歩いて行く。自分でも良く解らないけど、楽しい。
 一人で、きゃっきゃと騒いでいる。
 うーん、端から見たらバカかもしれない。
 でも、騒ぎたかった。
 すべてを忘れるために。
 あいつの事を、忘れるために。


 ひとしきりはしゃいだ後、近くの自販機でジュースを買った。
 海岸に戻り、ちょっとためらった後にタオルを敷いて、そこに座る。
 ごくっ、ごくっ。
 炭酸が、喉にしみる。
「はあ……」
 海を見ながら、大きくため息をついた。
 私ってば、何やってんだろ。
 波音が、独特のリズムで心に響く。
 何となく、ヤイコの詩が浮かんだ。
 あなたを想う、切ないラヴ・ソング。
 同時に、あいつのことを思い出す。
 笑顔のあいつ、怒った顔のあいつ、照れた顔のあいつ……。
 ぽたっ。
「え……?」
 涙が、こぼれていた。
 握りしめていた手の甲に、涙の粒が落ちていく。
 だめだ、私……。

 あいつのことが、忘れられない。
 あいつのことが、好きなんだ。

 こみ上げる想いに耐えられず、私は声を出して泣いた。



「……ここに、いたのか」
 その声に、私は驚いて顔を上げ、振り向いた。
 そこに、あいつがいた。

 どこでどうしたのか、大きなバラの花束を持って。

「なっ……どうし……」
 言いたいことが言葉にならない。
「ここ、俺たちが初めてデートした場所だろ? お前、前から『誕生日はここに来たい』って、言ってたから」
 そっか。そう言えば、そんなことも言ったかもしれない。
「……なあ、俺の話、ちゃんと聞いてくれるか」
 あいつの真剣な眼差しに、私は頷く。
「あのな、俺の隣にいた子は、俺の従妹なんだ」
「イトコ?」
「ああ、俺の叔母さんが花屋やってて、俺、そこでバイトしてたんだ。で、いつも買い物はあの子の役なんだけど、せっかく俺がいるからって、つきあわされてたんだ」
「ふうん」
 あいつの目は真剣だ。でもまだ、ほんの少し信じられない。
 本当は信じたいのに、心のどこかでまだ、あいつを信じきれていないんだ。
「大体な、あれはまだ小学生なんだ。いくらなんでも、俺は小学生に興味はねえよ」
「えっ?」
 そうだったの?
 背が高いから、中学生だとばっかり思っていたけど、まさか小学生とは……。
「な、わかっただろ? だから、機嫌直してくれよ。
「……それで、お詫びで花束?」
「何言ってんの。これは、俺の忘れ物だよ」
「は?」
 忘れ物?
「知ってるか? 俺、お前に言わなきゃならない言葉でまだ、一度も言ってない言葉があるんだ。だからお前の誕生日に、真っ赤なバラの花束と一緒に言おうと思ってた。ほら、お前言ったろ?『誕生日は、一度で良いから真っ赤なバラの花束をもらいたい』って。覚えてない?」
 あ……そんなことも言ったかな?
「あはは……すっかり忘れてた」
 私は頭を掻きながら、乾いた声で笑う。
「やっぱな」
 あいつが呆れた顔で言う。
「あのさ……もしかして、あんた、これ買うためにバイトしてたの?」
 むせかえるようなバラの香りの中、私はあいつに尋ねた。
「ああ。ちょうど叔母さんが、声をかけてくれたから」
「じゃあ、電話しても家にいなかったりしたのも?」
「そうだな……叔母さんのとこで夕食までごちそうになってたから……遅かったかも」
「ばかっ」
 私は思いっきり大きな声であいつに言った。
「なんでそんな事するのよっ」
「なんでって……バラの花を買おうと思って……」
 明らかにあいつがたじろいでいる。
「じゃあ連絡ぐらいしなさいよっ。私、寂しかったんだから……」
「だって、こういうのは内緒にしておかないと……」
「だってじゃないわよっ」
 あいつに向かって叫んでいるうちに、涙が出て来た。
 なんて鈍感な奴なんだろう。
 あなたがいれば、バラの花束なんていらないのに。
 バラの花束を貰っても、あなたがいなければ何にもならないのに……。
「……ごめん……俺、そこまで頭回らなかった……」
「ごめんじゃないわよっ」
「ああ、わかってる。……俺な、お前を驚かそうと思ったんだ。バイトも学校で禁止されてっから、言い出せなかったし……そうだな、俺は『お前のためだから』って頑張れたけど、お前の方は……悪い」
 そう言いながら、あいつはあたしの頭を抱えて自分の胸に引き寄せた。
 あいつの心臓の音が聞こえる。
「もう、こんな事しないからさ……」
 私はあいつの温もりと、鼓動と、バラの香りの中で泣いていた。
「私も……ごめんね……勘違い……して……」
「もう、いいんだ」
「うん……」
 あいつが私をぎゅっと抱きしめて来た。
 少し痛いくらい、きつく。
 でも私は気にならなかった。
 そのくらい、あいつが私の事を好きでいてくれるってことだから。
「な、俺の忘れ物、届けてもいいかな」
「ん? 何?」
「……お前を、愛してる」
「!」

 バラの花束が、砂の上に落ちた。

「……うん」
 私も、両腕をあいつの背中に回した。
 そして、あいつを抱きしめる。
「私も……愛してる」
 そして、唇を重ねる。
 唇から感じる、あいつの温もり。
 今なら、信じられるよ。
 あなたの想い。
 そして、私の想いも伝えられるよ。

「つめたっ」
 不意に足下を襲う感覚。
「やばっ、波が来てるよ」
「えっ? えっ?」
 慌てて離れる私たち。
「あーあ、靴がびちゃびちゃだ」
「私も」
 顔を見合わせて、笑う。
「あ、おい、バラが」
 見ると、バラの花束が波にさらわれていた。
「いいよ。あのままで」
 取りに行こうとするあいつを、私は引き留める。
「だって」
「いいよ……。私はちゃんと、忘れ物、届けてもらったから」
 微笑む私を見て、肩をすくめるあいつ。
「あのボリューム、けっこうするんだぜ?」
「いいじゃない。どーせ私のためだったんでしょ?」
「そりゃそうだが」
「じゃあいいよ。それより行こっ。私、お腹空いちゃった」
「さいで。じゃあ何か食べて帰りますか」
「もちろんおごりでしょ?」
「……まあ、お前の誕生日だからな。あ」
「なに?」
「いや……誕生日、おめでとう」
「ぷっ、あははは」
 あまりに間の抜けた感じで言うので、私は思わず笑ってしまった」
「なんだよっ、笑うこと無いだろ」
 顔を赤くするあいつ。
 笑いながらも、私はあいつの手を引いて、歩き出す。
 ……ありがとね。
 私はあいつにもう一度、微笑んだ。


END

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