#1 #2 #3 #4 #5 #6 #7 #8 あとがき

僕があげられる幸せ




  #1

 僕が彼女と出会ったのは、アルバイトを始めてから、ちょうど一週間後だった。僕は十月から知り合いの寿司屋で、出前配達のアルバイトをしていた。それで、彼女の家から出前の注文があったっていう、それだけの事なんだけど。
 彼女の家は寿司屋からそう遠くない住宅にあるんだけど、なにしろ名字が『鈴木』なもんだから、どこだか良くわからなかった。
 やっと捜し当てた家の二階の大きな窓から、僕を見ていたのが彼女だった。
 中学生くらいだろうか。長い黒髪の少女が僕の方を見ている。
 なんだろう?
 僕は首を傾げた。その日は結構忙しくて、まだバイトを始めたばっかりの僕は結構焦っていたから、良くわからない子にかまっている余裕なんてなかった。
 僕が彼女の方を見上げると、彼女はふっと目を逸らした。
 やっぱ、知らない人から視線を送られたら、目を逸らすよな。
 僕はそんなことを思いつつ、車に乗り込む。
 バイトを続けながらも、僕は彼女の顔が頭から離れなかった。


 それから何度か彼女の家に行っているうちに、その家の内情がちょっとずつ、わかってきた。
 二階から僕を見ていたのは、菜穂子っていう、十六歳の女の子だった。
 なんでも、良くわからない病気で、高校受験も出来ず、自宅療養しているとの事だった。

 こんな近くに、そんな子がいたなんて。

 僕はショックを受けていた。僕の周りは健康のカタマリのような連中ばかりで、満足に走ることもできないなんて、想像もしなかった。でも、いざ自分の周りにそういう子がいると思うと、なんだか複雑な気分になった。
 そんなもんだから、彼女の家に出前なんか行ったりすると、見ている彼女に手なんて振ったりして(彼女は結構戸惑っていたようだけど)、結構気にかけるようになっていた。


 そしてある日、僕は彼女の家に器を下げに彼女の家に行った。
 軽のワンボックスカーを走らせ、彼女の家に向かう。

 ピンポーン。
 …………。
 ピンポーン。

「おっかしいなあ……」
 普段は玄関の所に置いてある器が、今日に限って置いてなかった。
 仕方ないなあ。
「すいませーん」
 僕は思いきって扉を開けてみた。
 扉には鍵がかかっておらず、すんなりと開いた。
「家の人、昼寝でもしてるのかな……」
 そんなことを思いながらも、ちらっと中を覗く。
 僕の視界に、廊下で倒れている人の姿が飛び込んだ。
「たっ、大変だっ」
 僕は慌てて中に入った。器を下げに来た事なんてすっかり忘れて。
 倒れていたのは、いつも僕を見ていた彼女だった。僕は彼女の側に走り、抱き上げる。
 白いパジャマ姿の彼女は、綿のように軽かった。痩せているのだろうか、骨が少し、腕にあたる。
 彼女の身体はすごく暖かかった。まるで、猫を抱いているような暖かさ。
「おいっ、きみ、きみっ」
僕は彼女の体を軽く揺さぶってみる。もしかしたら、こんな事をしてはいけないのかもしれないけど、その時の僕にはそんな事を考えている余裕なんてなかった。ただ、なんとかして彼女の意識を回復させようという事で頭が一杯だった。
「う……うん……」
 彼女が小さく、うめき声をあげる。
「よかった……」
 彼女がうっすらと目を開けるのを見て、僕は安堵のため息をもらした。
「私……は……?」
 彼女は、ぼんやりとした表情で僕を見る。
「あのっ、ここで気を失って倒れていたんだ。でも、よかった……」
「あ……あり……がとう……」
 彼女の声は、今にも消えそうだった。怯えたような瞳。
「あっ」
 ほっとした途端、僕は自分の状態に気づいた。
 いきなり知らない男性に抱えられていれば、誰だって怖がるだろう。
「あっ、ごっ、ごめ……」
 彼女をこんな所で降ろすわけにもいかず、僕は彼女を抱いたままおろおろする。
「あ、あの、私の方こそごめんなさい……。私、どうしちゃったんだろう……体に力が入らなくて……」
「じゃ、じゃあ僕が運んであげるよ。……って言っても……あの、どこがいい?」
「じゃあ、あの、私の……部屋まで……」 
 彼女も恥ずかしいのだろう。前にも増して小さな声で言った。おかげで僕は危うく聞き損なうところだった。
「二階……でいいのかな?」
「ええ……階段を上って、左の部屋です」
 僕は彼女の言うとおりに上がっていった。彼女を抱えたまま器用に扉を開けると、彼女の部屋に入る。
 彼女の部屋は、全体的に白と緑を基調にしたような、落ち着きのある部屋だった。僕がイメージしていた女の子の部屋とは、ちょっと違っていた。このくらいの年齢の女の子だと、ピンクを基調にしてもっと可愛い部屋だったりするように思えたりするのだが、それは偏見というものなのだろう。

 でも、こんなもんなのかな。

 僕はベッドに彼女をそっと寝かせる。
「じゃあ、僕はこれで……」
 今更になってバイト中である事を思いだした僕は、そう言って帰ろうとした。
 が、彼女が服の裾を掴んだまま、離さない。
「あの……もう少し、ここにいてください……」
 さっきのこともあり、彼女も怖いのだろうか。彼女の潤んだ瞳に見つめられた僕は、結局ここに留まることにした。女の子の瞳に弱いってのは、もしかしたら致命的かもしれない。
「じゃあ、ちょっとだけね」
 僕は側にあったイスに腰掛けた。彼女はほっとしたような表情を浮かべると、僕に向かって口を開いた。
「お寿司屋さんの人……でしょ?」
「まあ……そうだね」
 彼女の唐突な言い方に僕は苦笑する。そりゃ彼女から見ればそうなるのだけれども、なんだかおかしかった。
「いつも、ここから見ていたからね」
 僕はベッドの横にある、大きな窓を見た。薄緑のカーテンが太陽の光を柔らかく遮っている。
「でも、別に修行をしているとか、そういうわけじゃなくって、本業は大学生なんだよ」
「そうなんだ。私は、学校に行っていないの……」
 彼女は悲しげに瞳を伏せる。
「そうなんだ、じゃあ、早く元気になって、学校に行かなくちゃね」
 僕の言葉に。彼女は首を振った。
「でも、私の病気はもう、治らないから……」
 彼女は再び、悲しげな瞳を見せる。
「私はもう、ずっとこのままなの。昔から身体が弱くて、ずっと病院にいたの……」
 彼女の瞳から、涙がこぼれた。
 ああ、彼女は本当に重い病気なんだ。
 僕は、いけない事を聞いたのかもしれない。
「あ、あのさ……それでも、諦めるのは良くないよ。どんな事でも『絶対』っていう言葉はないんだから。大丈夫、諦める事さえしなければ、君の体はきっと、良くなるよ」
 慰めにもならないと思ったけど、僕はなにか言わずにいられなかった。悲しんでいる彼女のために、何かしてあげたかった。
「うん……ありがとう。あのね、私、四月から自宅療養に変わったの。これって、良くなっている証なのかな」
 そっか、さっき『ずっと病院にいた』って言ってたもんな。
「それは、そうなんじゃないか?」
「……そのかわり、飲まなきゃいけない薬も増えたけど」
「でも、点滴とか、なんて言うの? とにかく本格的な治療がいらなくなったってことでしょ? やっぱ良くなってるんだよ」
 本当は、よくわからないけど。
「うん……そうだよね。ありがとう」
 彼女は、不意に涙をこぼした。
「え? あ? ど、どうしたの?」
 女の子が涙を流すと、どうしても焦ってしまう。僕はおろおろしながら彼女を見る。
「ううん……嬉しいの……。私、兄弟とか、友達とかいないから……そう言ってくれる人、いなかったから……」
「じゃ、じゃあ……さ。僕が、兄弟とか、友達とかになってあげるから……だから、元気を出して、ね」
 僕は今自分にできる、精一杯の笑顔で言った……あんまり、いいものではなかったかもしれないけど。
 でも、彼女は笑ってくれた。少しやつれた顔だけれども、もし健康ならばこれほどの美人は、そうはいないだろうっていう顔。

 何故か、心臓の鼓動が速くなるのを感じた。

「じゃあ、私の初めてのお友達ね」
「別に、兄弟でもいいけど?」
「じゃあ、両方」
「はいはい」
 彼女の明るい声。
「あんまり騒ぐと、体調崩すんじゃない?」
 僕は彼女の事を気遣って、彼女をなだめる。
「そうだ、まだ名前を聞いていなかったね。ええと、まず自分からかな。僕は、荒木浩司、二十一歳。独身」
「そんな事まで聞いてないでしょ。私は、鈴木菜穂子、十六歳。独身」
「あ、独身なんだ。僕と同じだね」
「そうですね」
 彼女はクスクスと笑う。
 アハハ、でも、ウフフ、でもない、クスクス。
 なんか、優しい笑い。
 僕もつられてハハハ……と笑う。


 僕はふと時計を見た。
 『これは絶対にヤバイ』という時間を針は指している。
 ちょっと苦い顔をして、僕は彼女の方を見る。
「じゃあ……もう帰らないと」
「うん」
「今度、いつ暇かな」
「いつでも……大丈夫です」
「じゃ、今度来るときは電話するから」
 僕はそう言って、ふと立ち止まる。
 僕は彼女の方に振り向いた。
「そうだ、電話番号……教えてくれる?」


「じゃあね」
 電話番号を聞いて外に出た僕に、彼女が二階から手を振る。
「じゃ、」
 僕は車に乗った。
 エンジンをかける。
 僕は彼女の方に手を振って、それから、走りだした。
「今日はもしかしたら、今年一番良い日、かもしれないな」
 僕はふと考える。
 純白のパジャマを着た彼女の姿が目に浮かぶ。
「……天使……か」
 そう、背中に白い羽をつければ、きっと天使のように見えるだろう。
「あはははは」
 思わず赤面してしまったのをごまかすかのように、僕はアクセルをふかした。


 もちろん、そのあとおじさんにこっぴどく叱られた事は、言うまでもない。



  #2

「……とまあ、そんな事があったんだ」
 ここはファミリーレストラン『すかいてんぷる』だ。今僕は、麻美と話している。
 石原麻美は、僕の幼なじみだ。同い年で、同じ大学に通っている(僕が一浪してるので、実質的には先輩だ)。困ったときなど、僕はいつも、彼女に相談相手になってもらっている。

 ちょっと、鋭すぎるのが難点だけど。

 今回は珍しく、彼女のほうから電話があった。「どうしたの?」という僕のセリフに、『別に、暇だから』と答える彼女は変な奴だと思う。
「まったく、暇だったら彼氏にでもかけろよ」
『だって、いい男がいないんだもん』
「あっそー」
 僕たちは、そんな会話から始まった。
 麻美の『なんだか楽しそうだね』というするどいセリフに「まあ、ちょっとね。話すと長くなるから言わない。電話代がもったいないから」とか言ったのが間違いの元だった。
『えーっ、教えてよー』という麻美の言葉に、僕は思わず「まあ、今から会おうっていうのなら教えてもいいけど」と冗談混じりに言った。しかし、それがマズかった。
『じゃあ、今から会おう』
「ちょっと、今のマジ? 今十時だよ?」
『だって、教えてくれるならいいよ、私は』
「まあ、僕も大丈夫は大丈夫だけど……」
『じゃあ、決定ね』
 結局いつものノリである。僕はこういうのにも、弱いのかもしれない。
「じゃ、じゃあ……今からじゃ……うーんと、じゃあ、迎えにいくから、あの公園で待ってて」
『はーい』
「僕も今すぐ出るから……五分位で着くかな」
『ん、わかった』
「じゃ、またあとで」
『はーい』
 カチャ。
 僕は受話器を置くと、大きなため息を一つついた。

 僕はその後、急いで待ち合わせの場所に向かった。待ち合わせの公園は近かったから、そんなに時間はかからなかった。
 歩きっていうのは結構厳しいものがあったけど。
 麻美は公園で、寒そうに手をこすりながら立っていた。十月も終わりになると、夜中はそれなりに冷え込む。
「遅いぞ」
「悪い悪い……とりあえず、どっか行くか」
「うん」
 僕と麻美は歩きだした。今夜はいつになく冷える気がする。
 息が白い。
「さあむい」
「お前が呼び出したんだろ。文句言うな」
「そうだけどさー……」
「ま、我慢しろ」
 僕は麻美の頭をぽんぽんと叩く。
「こら、人の頭を叩くなっ」
 麻美が怒る。
「仕方ないだろう。叩きやすいとこに頭があるんだから」
「これでも同い年で、先輩なんだからねっ」
「はいはい」
 ぽんぽん。
「またー」
 ま、恨むなら自分の身長を恨むんだな。二十五センチも差があれば、叩きたくなるのも当然というものよ。
「……そおだっ」
 何を思ったのか、突然麻美が僕の腕に抱きついてきた。
「なっ、なんだよ急に……」
 僕は思いきり焦る。まあ、こいつは昔から突拍子もない事をする奴だったが。
「だあって、寒いんだもーん」
「お前っ、人の目が……」
「こんな時間に歩いてる人なんていないよ」
「お前、僕を男として見てないだろ?」
「そんなことないよー。暖かいしー」
「それ男として見てるのと違う」
 腕に、麻美の柔らかい胸が、押しつけられる。
 麻美って、思ったよりあるんだよな……。
「なんか言った?」
「いや、何にも」
 ……ホント鋭いんだから。


 結局僕達は近くの『すかいてんぷる』に落ち着いた。別にこんな所に来なくてもよかったのだが、あまりにも寒いので気がついたら入っていたというのが正しいかもしれない。
「よかったね、こーちゃん。やっと春が来たじゃん」
 僕の話を一通り聞いた麻美が、ミルクティーをすすりながら言った言葉はそれだった。僕の事を『こーちゃん』と呼ぶのは彼女だけだ。
 人前で言われると結構恥ずかしいものがあるのだが、小学校の頃からだから、今更変えろというのも難しい。
「あのなあ、相手はまだ十六だぞ。僕はロリコンかっての」
「いやあ、十六なら高校生でしょ? ならアリでしょ。それに、結構体は大人だったりして」
「そりゃなあ、痩せているとは言え、こう、身体のラインは……って僕は変態か!」
「そうかもしれない」
「フォローしてくれよー」
 二人の会話はいつもこうだ。意味がないようで、意味がある、それでいてやっぱりないような会話。
「でもまあ、結構可愛いしな。歳は五歳違うけど……」
「五歳差なんて、大した事ないよ。あと二、三年もすれば目立たなくなるって」
「でもね、今頃の五歳は大きいよ」
「そうだよね」
「おまえなー」
 麻美は、肯定しているのか否定しているのか。
「でも、大丈夫」
「お前、それって根拠ないだろ」
「うん」
「あったまいたー」
「でもね、冗談じゃなくて、こーちゃんならいい『お兄さん』になれると思うよ。意外と面倒見がいいし」
「『お兄さん』ねえ……」
 ま、悪い気はしないな。
「いいんじゃないの? そのうち『お兄さん』から『恋人』に格上げされるかもしれないよ?」
「別にそんな事を期待しているわけじゃないんだよな……」
「そーお?」
「……やっぱりお前なんかに話すんじゃなかった……」
「いまさら後悔しても遅いって」
「お前に言われたくないわ!」
「あはははっ」
 小悪魔のような笑顔。
 ……くそったれ。
 でも麻美に打ち明けたことで、心の中が少し軽くなったことは確かだった。
 それについては、感謝しないといけない。


「今日はこの寒い中、ご苦労様でした」
「いえいえ」
 僕は麻美を家まで送っていった。さすがに今日は、別の話題で盛り上がる余裕はなかった。
「なんか進展したら教えてねー」
「はいはい」
 麻美とはそう言って別れた。
「でもなあ……」
 寒空の中を歩きながら、僕は菜穂子の事を考える。
 彼女の病気は、本当に治らないのだろうか……。
 もし、ちょっとでも希望があるなら、僕はそれに賭けてみたい。
『彼女のためなら、何でも出来そうな気がする』
 それが、僕の素直な気持ちだった。
 もしかしたら、本当に彼女の事が好きになってしまったのかもしれない。
 麻美はその事を僕よりも早く、見抜いていたのだろうか。
「さすが麻美だな……」
 口に出してつぶやいてみる。
「この話、弘明にも伝わるのかな……」
 金沢弘明は、中学時代からの僕たちの友人だ。変な奴なんだけど、すごくいい奴だ。
 麻美のことだから、話すかもしれない。別に、話されて困るような事ではないけど。
「ま、いっか。こうなったら、あの二人も巻き込むか」
 菜穂子も友達が多い方がいいだろうし。
 けっこう僕って強引な性格かもしれない。
 僕は冷えた身体を暖めるかのように、家に向かって駆け出した。



  #3

 それから僕は、二日に一度は菜穂子の家を訪ねるようになっていた。僕は菜穂子にせがまれ、彼女の家庭教師役を引き受けたが、国語に関しては、恥ずかしい事に彼女の方が出来たり(暇だから、本ばかり読んでいたのだそうだ)した。
友達であり、兄であり、先生である。
 僕は、一人で三役をこなしていた。菜穂子も、いつのまにか僕の事を『お兄ちゃん』と呼ぶようになっていた。
 たまに、麻美や、弘明を連れてきたりもした。最初は、麻美、そして、弘明。
 弘明には申し訳ないとも思ったけど、少しでも彼女の友達を作ってあげたいと思ったから。
 さすがに、二人の前で『お兄ちゃん』と呼ばれるのは、麻美に『こーちゃん』って呼ばれるくらい恥ずかしかったけど、彼女は嬉しそうだった。特に麻美という同性の友達ができた事は、とても嬉しいようだった。もっとも、初めて連れてった時は菜穂子に「お兄ちゃんの彼女?」とか突然言われてあわてて否定したのだが。
 弘明はもっと激しかった。
「菜穂子ちゃん、浩司は危ないから気をつけな」
 とか、
「もう襲われた?」
 とか、とんでもない事を言うのだ。しかし、
「お兄ちゃんはそんな事しません!」
 という、彼女の言葉には、なにも言えないようだった。
「お前、けっこう信頼あるのな」
「あったりまえだ、お前とは違うわ」
「へー、こーちゃんも言うねー」
「麻美。弘明なんかと僕を、一緒にしないでくれよ」
「なに言ってんだ。高校時代、俺と一緒に廊下を通る女を片っ端からチェックしていたくせに。点数つけたよなー」
「そっ、それはっ」
「おっ、焦ってる焦ってる」
 僕達のそんなやりとりにも、菜穂子はクスクスと笑っていた。
 菜穂子の両親とも、問題なくつき合う事が出来た。特に母親の方は、彼女の見せる笑顔がとても嬉しかったようだった。
 一度、彼女の母親が僕にお金をくれたけれども、僕は丁重にお断りした。僕は彼女の友人なのだから、お金をもらう筋合いはないと。
「では、家庭教師代と言う事で……」
 まったく引き下がらない彼女の母親に、僕はしぶしぶ受け取った。僕がしぶしぶお金をもらうなんて、今まであっただろうか。
 菜穂子にその事を話すと、
「いいんじゃないかな。お母さんも、何らかの形でお礼がしたかったようだし。家庭教師代としてならね」
 と言って微笑んだ。
「じゃあ、このお金で今度、なんか買ってきてあげよっか」
「私ね、一度、真っ赤な薔薇の花を送ってもらいたいなーって、思ってたの」
「はいはい、今度来るときには、薔薇の花束を持って参上いたします」
「わーい」
 僕から見ても、彼女は少しずつ元気を取り戻しているようだった。気のせいか、ほんの僅かづつ、頬がふっくらしてきている気がした。
「頑張って元気になるからね、お兄ちゃん」
 彼女は、ベッドの上でそう言うのだった。



  #4

「あのね、外出の許可が出たの!」
 十二月のある日、彼女は僕が入ってくるなり、嬉しそうに言った。
「最近は体調もそんなに悪くないようだから、たまには少し、自然の空気を吸ったほうがいいんじゃないかってお医者様が」
 お母さんが補足する。
「そうか、それはよかった。じゃあ、今度の日曜でも、どこか連れてってあげようか」
「えっ、本当?」
「僕は今まで一度だって、菜穂子に嘘をついた事があるかい?」
「やったー」
 ベッドに腰掛けた僕に、彼女は抱きついてきた。わずかな胸の膨らみが、僕の胸にあたる。
「おいおい、そんなにはしゃぐなよ。また熱を出すぞ」
 恥ずかしくなって、僕は彼女をそっとベッドに寝かせる。
「二人じゃなんだから、あの二人も連れていこうね」
「うん……」
 彼女はちょっと暗い顔をする。
「どうしたの? あいつらの事、嫌いか?」
「ううん……みんなで行こうね。お兄ちゃん」
 彼女はいつのまにかいつもの明るい顔に戻っていた。
「ああ」
 鈍感な僕には、一瞬見せた彼女の暗い表情の意味がわからなかった。


『ばっかじゃない?』
 その夜、菜穂子の事が気になって麻美に相談の電話を入れた。僕が一通り話したあとの麻美のセリフがこれだった。
「いきなりそれかよ……」
『菜穂子ちゃんは、こーちゃんと二人っきりで、どこかに行きたいのよ。まったく、鈍感なんだから……』
「鈍感なのは十分解っております。でも、暗い表情に気付いただけでもよかったでしょ?」
『まあ、過ちを犯す前に気付いたと言う点ではね。そういうわけだから、菜穂子ちゃんと二人で行ってらっしゃい』
「うん……でもね。今回は、やっぱり四人で行こうと思うんだ」
『なんで?』
「いや、最近さ……菜穂子と二人っきりだと、間が持たなくなる時があって……ね……」
『やっぱり、こーちゃんは菜穂子ちゃんの事……』
「うるさいなー、まったく……でもね……今、僕は自分の気持ちがわからなくなっているんだ……僕は本当に彼女の事が好きなのか、それとも、ただの同情なのか……」
『うーん、でも、ただの同情じゃ、あんな風につき合えないと思うよ』
「そうかな……」
『そうだよ』
 なんだか麻美が言うと、本当にそんな気がしてくる。
「でもまあ、とりあえず今のところは、菜穂子の兄貴で通しておこうと思うんだ」
『どうして?』
「うん。今、彼女の身体は奇跡的に良くなってるらしいんだ。だから、もうちょっと菜穂子が健康になるまで、彼女によけいな心配はさせたくないし、僕もしたくないんだ……」
『ふーん、よくわからないけど、まあいいわ』
「じゃあさ、今度の日曜に……狭山湖でも行こうかな……いい?」
『別にどこでもいいけどね……わかった、金ちゃんに回しておく』
 金ちゃんってのは、弘明の事だ。でも、『きんちゃん』っていうあだ名はちょっと笑える。
「ああ、さんくす……集合はうちね。ええと……十時半ってことで」
『はーい』
「じゃ、お願いしまーす」
 そう言って僕は電話を切った。
「さて、日曜は忙しくなるかもしれないな……」
 僕はそうつぶやくと、残っているレポートを片づける為に、机に向かった。



  #5

 日曜日。
 幸いな事に、その日は快晴だった。
 いつもは冷たい風も、今日はまったく吹いていない。
 ドライブに行くには、最高の日曜だった。
 僕は朝早くから起きていた。
 正確に言うと、眠れなかったと言うのが正しい。
 それでも、意識ははっきりしていた。頭が重いとか、そういうのもない。
「よっしゃ、今日も元気だ」
 僕はそうつぶやくと、父に(頭を下げて)借りたワゴンに乗って彼女の家へと向かった。


「おはようございます」
 出迎えてくれた菜穂子の両親に、しっかりとあいさつをする。
「今日は、菜穂子をドライブに連れていってくれるそうで」
「いや、そんなに大した事ではないですから……」
 そんなやりとりをしている間に、彼女は玄関にやってきた。
「おはよっ、お兄ちゃん」
 まだ足どりは危なげだったが、彼女は誰の支えもなく歩いていた。その事が、僕には嬉しかった。
「さて、二人が待っているから、行こうか」
 僕は彼女を助手席に乗せると、自分も運転席に乗り込んだ。
「じゃ、行ってきます」
「娘を……頼みましたよ」
「はい!」
 僕はしっかりとした口調で言うと、ゆっくりとアクセルを踏み込んだ。


 うちに戻ると、すでに二人は来ていた。
「おはようございます」
「おっはよー」
 菜穂子に向かって、二人がそれぞれあいさつする。
「なんだよ、僕にはあいさつ無し?」
「当たり前」
 弘明のセリフにみんなが笑う。
「さってと、では、狭山湖に向かってしゅっぱーつ」
「おーっ」
「……と言いたいところですが、とりあえず前半は、航空公園にまいりまーす」
 ずっこける二人を後目に、僕は車を走らせた。
 ノリが良い友人を持つと、楽しい。


「うーん、やっぱりちょっと寒いね。菜穂子、大丈夫?」
「うん。結構厚着してるから」
 そういえば、と僕は菜穂子をまじまじと見る。
「なあに、お兄ちゃん」
「いや、もしかしてパジャマ姿以外の菜穂子を見るのって、初めてじゃないか?」
「そうかもしれない」
 僕達はクスクスと笑う。僕はどうしてもハハハ……になってしまうのだが。
「おーい、二人だけで話してないで、早くこっちへ来いよー」
 いつの間に先に言ったのか、弘明が呼んでいる。
「こっちは早く行けねーんだよ! ったく、菜穂子の事を考えろってんだ。ねえ」
「ごめんね。お兄ちゃん」
「いや、そういう意味で言ったんじゃなくて……」
 僕はあわてて弁解する。
「早くこーい」
 弘明の声。僕達の百メートルくらい前を弘明と麻美が歩いている。
「まったくこっちの話を聞いてねーな……ようっし」
 僕はは突然、菜穂子を抱え上げる。
「きゃあっ」
「いくぞおおっっ」
 僕は驚く菜穂子を抱えたまま、走り出した。


「ぜえっぜえっ」
「だいじょぶ? お兄ちゃん」
 僕は菜穂子の隣で、大の字になって倒れていた。さすがに菜穂子を抱えたままの全力疾走は厳しい。
 肺が酸素を求めて暴れ回る。
「あんたねえ……いくら菜穂子ちゃんが軽いからって、元が非力なんだから、あんな事をやったら疲れるに決まっているでしょ」
 僕に冷たい言葉を投げかけてくるのは、言わずと知れた麻美だ。
「うるさいなー……」
 まったく、何故こんなのが幼なじみなのか。
「さーて」
 僕は呼吸を整えながら起きあがる。向こうでは、弘明が一人寂しくサッカーボールで遊んでいる。
「よしっ、補給完了。あのさ、麻美」
「菜穂子ちゃんのことなら、任せて」
「ん。じゃあ菜穂子、お兄ちゃんちょっと、あいつをからかってくるからな」
「うん」
 僕は菜穂子がうなずいたのを見てから、弘明の所に向かった。
「おーい、フリスビーやろうぜ」
「なんだよ、菜穂子ちゃん、いいのか?」
「大丈夫、麻美が見ててくれるから。あの二人、話があるようだったし」
「そっか」
「さあて、いっちょー身体を動かすぞー」
「さっき派手に走ったじゃねーか」
「うるせー」
 僕は弘明に向かって、おもいっきりフリスビーを投げる。
「のおっ」
 弘明は後ろに飛んでいったフリスビーを走って取りにいく。
 僕はちらっと菜穂子の方を見る。
 彼女は、麻美と何か話しているようだった。とりあえず楽しそうな顔をしている。
 でも本当は、菜穂子もこうやって僕達と一緒に動きまわりたいのだろうな。
 もしかしたら麻美は、そんな彼女の気持ちがわかるから、一緒にいるのだろうか。

 ただ面倒くさいだけかもしれないけど。

 そうだ、動けなくてもちょっとだけ、菜穂子も参加させよう。
 僕はそう思って、受け取ったフリスビーをできるだけゆっくりと菜穂子に向かって投げた。
「菜穂子ーっ、行ったぞーっ」
 僕は大声で叫んだ。菜穂子は突然の事にあわてたが、脇にいる麻美がフォローしているようで、菜穂子はフリスビーの行く先を見つめる。
 フリスビーは狙い通り菜穂子のちょっと右側に落ちた。
「おーい、投げてくれーっ」
 僕は菜穂子に近づきながら叫んだ。
 どうやって投げるの? と言いたげな彼女に、麻美が投げかたを教える。菜穂子は真剣な表情で教わっている。
「いきまーす」
 彼女の代わりに、麻美が叫んだ。いくら菜穂子が元気でも、ここまで届く声を出すのは結構疲れるだろうと見込んでの事だろう。
 僕はゆっくりと近づく。
 菜穂子がフリスビーを投げた。彼女が投げたフリスビーが風に乗って、フワリと浮き上がった。
 しかし、風に乗ったフリスビーは容赦なくあさっての方向に飛んで行く。
 僕はダッシュした。
「おりゃあああっ」
 落ちそうなフリスビーに向かって、水平にジャンプする。
 伸ばした左手がフリスビーを掴んだ。
「やったあっ」
 後ろで麻美が叫んだが、それは僕がフリスビーを掴んだ事なのか、それとも顔面から芝生に突っ込んだ事なのかはわからなかった……。


「あいたたた……」
「大丈夫?」
 それでも、擦り傷だけですんだのは不幸中の幸いであろう。
 僕は水道で顔を洗うと、菜穂子に絆創膏を貼ってもらった。
「まったくこーちゃんは……」
 麻美は僕の行動に呆れかえっているようだ。
「フリスビーって、難しいんですね」
「まあね」
 可愛く微笑む菜穂子に、まだ痛む鼻の頭をさすりながら僕は答えた。
「さて、もう昼じゃないかな」
 僕は弘明に尋ねる。
「そうだね」
「じゃ、お昼にしよう。ファミレスでいいだろ?」
「うん」
「じゃ、けってーい」
 僕はそう言って彼女を抱き上げる。
「さて、お姫様、行きましょうか」
 僕は菜穂子に優しく言った。
「そうですね、爺」
「……あの、いくらなんでも、爺はないと思うんですが……」
「そうですね。では下僕、参りましょう」
「ひでー」
 僕達は笑った。僕の腕の中で、菜穂子もクスクスと笑う。
「菜穂子ちゃんって、結構ノリがいいね」
「そうですかあ?」
 弘明の言葉に、彼女は笑顔で答えた。


 で、僕達は『すかいてんぷる』で昼食を取り、次の目的地である、狭山湖へと向かった。
「うわあ、ひろーい」
 眼前に広がる湖を見た菜穂子の感想がそれだった。僕と菜穂子は湖から少し離れたところに座りこんでいた。
「まあね」
 僕は彼女の隣でうなずく。
「そういえば、弘明と麻美は?」
「ええと……麻美さんが、弘明さんと二人で散歩してくるって言ってたけど……」
 しまった。
 麻美に謀られた……。
「麻美のヤロー」
「何か言った?」
「いや、何でもない」
 あの、おせっかい焼きが……。
「お兄ちゃん。どうかしたの?」
 菜穂子が心配そうに僕を見る。
「いや、何でもないよ。麻美と弘明って、結構仲がいいんだなーとか思っただけ」
「そう」
 安心した菜穂子は、再び湖に目を向ける。
「本当に、広いね」
「ああ、そうだね」
「でも、海ってもっと広いんでしょ」
「そりゃそうさ。なんたって地球表面の約七割を占めているんだから」
「私……本物の海って、見たこと無いから」
「そっか、じゃあ、今度行こう」
「え? いいの?」
「当たり前さ。いつだっていいぞ。でもまあ、暖かくなってからの方が、いいかもしれないな」
「うん……」
 ここに座っているだけで、じわじわと寒くなっていくのだ。きっと菜穂子の身体のためにも、暖かくなってからの方がいいだろう。


 しばらく、僕達は黙ったまま湖を見ていた。まるで、役者が本番中に言うべきセリフを忘れてしまったかのように、二人とも、なにも言わなかった。
「ねえ、お兄ちゃん……」
 不意に、菜穂子が話しかけてきた。寒いのだろうか、僕に寄り添ってくる。
 彼女の体重が、僕の左腕にかかる。
「私の事、どう思う?」
 僕はどきっとした。そんな事を尋ねてきた事もそうだけれど、僕の目を見る彼女の瞳が、妙に大人っぽかったからだ。憂いを含んだ瞳、と言うのだろうか。
「そ、そうだねえ……可愛いと思うよ。少なくても、麻美よりは……ね」
「そんなんじゃなくて、もっと、違うの」
 彼女は首を振った。まるですがりつくかのような彼女の瞳。
「私のこと、好き?」
 え?
 完全な不意打ちに、言葉に詰まる。
「……うん、好きだよ」
 僅かな戸惑いの後、僕は答えた。
「……誰よりも?」
 掠れかかった、消えそうな声。
「うん、誰よりも……」
 僕は菜穂子に微笑みかける。
「よかった……」
 僕の言葉に、彼女は安心したように微笑む。
 しかしその途端、不意に彼女は僕の膝の上に倒れこんだ。
「菜穂子!」
 僕はあわてて彼女を抱え起こす。
 いつのまにか、彼女の全身は汗でびしょ濡れになっていた。額に手をあててみると、暖かい缶コーヒーのように熱かった。
「菜穂子っ」
 くそっ、こんなことに今まで気づかなかったなんて。
「だっ、大丈夫っ」
 僕の叫びに、二人は意外に近いところから顔を出した。こいつら、盗み聞きでもしようとしていたのだろうか。
 しかし、今はそんな事にかまっている余裕はなかった。これは、一刻を争うに違いない。
「どうしたの?」
「菜穂子の容態が悪化したんだ。とにかく菜穂子の家に電話を」
 僕は携帯を麻美に放る。麻美は受け取ると、メモリから菜穂子の家を探し出す。
「ほお、二番目ですか」
「んなこと言ってる場合じゃないだろっ」
「ご、ごめん……」
 きっと自分でも心を落ち着けようとして言った冗談なのだろうが、僕にはそんな余裕がなかった。麻美は気を取り直して、菜穂子の家に電話をかける。その間に僕は菜穂子を抱き抱えると、急いで車に戻った。

 菜穂子のお母さんは、いつもかかっているという病院を教えてくれた。私達もすぐ行くから、との事だった。
 僕は車を飛ばす。菜穂子は後ろで麻美に抱かれている。
「浩司、焦るなよ。この車が事故ったら意味ないんだからな」
「わかってる」
 答えながらも、僕はアクセルを閉じない。自分の限界までスピードを上げる。
「そこ、右行った方が早い」
「おう」
 弘明が的確なナビをしてくれる。
 頼む、菜穂子。
 死ぬな……。



  #6

 病院では既に、ベッドが用意されていた。彼女の両親が連絡しておいてくれたのだろう。
「いったいどうしたんだろう……」
 僕の心の中で、罪悪感がかけずり回っていた。
 十二月に湖なんて、やはり寒かったのだろうか。それとも……。
 理由はいくらでも思いつく。
 僕のせいで、彼女は……。
そう思うと、胸が張り裂けそうになった。
「大丈夫、気をしっかり持てよ」
 そう言って僕の肩を叩いたのは、弘明だった。
「ああ……」
 彼の、僕に対する思いが伝わってきたので僕はそう答えたが、やっぱり心の中では、やり場のない感情が暴れ回っていた。
 菜穂子……。
 しばらくの後、菜穂子の両親が駆けつけて来た。
「すみません、僕が至らなかったばっかりに……」
 僕は両親に向かって深々と頭を下げた。
「いいのよ、荒木君。あなたのせいじゃないわ」
「そうだよ、私達は、いつかこうなるという事は覚悟していたのだから」
「……どういう事、です?」
 僕は尋ねた。いったい、どうなっているのかわからない。菜穂子は、奇跡的に回復に向かっていたんじゃなかったのか? それなのに、何故……。
「実は、菜穂子はあと一週間の命と言われていたの……」
 お母さんの言葉に、僕は呆然となった。彼女が、あと一週間の命……。
「だ、だって……そう、彼女はあんなに元気になったじゃないですか!」
 僕は、すべてが嘘だという思いで言った。
「あれは……例えて言うなら、電球が、消える前に一瞬だけ明るく輝く。そう言う事なんだよ」
「う……嘘だ」
「既に春の時点で、菜穂子の命は、もって後半年と言われていました。だから、病院ではなく、自宅で療養させることにしたのです」
 僕はもう、すべてを否定せずにはいられなかった。菜穂子が、菜穂子が死んでしまう。
 僕は崩れるように両膝をついた。何という事だ……。
「私達は、残り僅かな時間を、あの子の思うとおりに使わせてあげたいと思いました。だから、出かけることを許したのです」
「荒木君、私達も初めてその話を聞いたときは、おそらく今の君以上に辛かったんだ。わかってください。そして、最後まであの子の側にいてあげてください……」
 いつのまにか、彼女の両親も涙を流していた。
 そうだ、一番悲しいのは、僕じゃない、彼女の両親なんだ。
 僕は泣いてはいけない。少なくとも、彼女の前では。少なくても、彼女には最後まで希望を持たせなければ。それには、自分も最後まで希望を捨てる訳にはいかない……。
「わかりました。後一日だけ、僕は彼女につき合います。ただし、その一日だけです。
それが終わったら、彼女を入院させて下さい」
「しかし、今更そんな事をしても……」
「単なる、僕のわがままかもしれません。でも、僕は一秒でも長く、菜穂子に生きていて欲しい。ほんの僅かでも、生きながらえて欲しいんです。ですから……」
 僕はきっぱりと言った。おそらく、今までなかったくらいに真剣な目で。
「……わかりました。一秒でも長く生きていて欲しいと思うのは、私たちも同じですから」
 彼女の父親が、僕にはっきりと言った。


 彼女が気がついたのは、すっかり暗くなってからだった。
「……ここは……?」
「病院よ。あなた、途中で気を失っちゃったのよ」
 お母さんが答える。
「……そっか……お兄ちゃんは?」
「僕なら、ここにいるよ」
 僕は静かに彼女に近づいた。
「今日は、急に動いたから、疲れすぎたんだね」
 僕は優しい声で彼女に語りかける。
「そう……」
「今は、大丈夫かい?」
「うん……なんともない」
「よかった。じゃあ、明日また、出かけようか。今日のやり直しってことで……そうだ、海に行きたいって、行ってたよな。うん、行こう」
「え?」
「明日は麻美とか、弘明は来られないみたいだから、僕と二人だけど」
「本当?」
「僕は、菜穂子に一度だって、嘘をついたことがあるかい?」
「ううん」
 彼女は首を横に振る。
 本当は、すでに嘘ばかりなのだけれども。
「じゃ、今日は黙って、家に帰ろう。残念ながら僕は、あのバカたれ共を送っていかなきゃならないから、家までは行けないけど、ちゃんと、明日のためにしっかり寝ておくんだぞ。明日も倒れたりしたら、もったいないからな」
「はーい」
「じゃ、どうもすみませんでした」
「いいえ、こちらこそ」
「では、失礼しまーす」
 僕はそう言って、病室を出た。


「待たせて悪いな」
 待合室では、二人が退屈そうに座っていた。
「大丈夫?」
 麻美が心配そうに僕を見る。菜穂子の事ではない、僕が大丈夫かと聞いているのだ。
「平気平気、立ち直りが早いのが僕の取り柄だから」
 僕はむん、と力こぶを出してみせる。麻美は「よかった」と胸を撫で降ろす。
 結構心配してくれてるんだな。
 友達って、こういうときに大切だと感じる。
「さーて、ラーメンでも食って帰るか。二人とも、おごってやるよ」
「なに言ってんだ。いいよ」
「いや、おごらせてくれ。もうちょっと、おまえらと一緒にいたいんだ」
 その言葉は紛れもない真実だった。今一人になったら、悲しみに押しつぶされてしまいそうだったから。



  #7

 次の日。
 僕は再び、彼女の家に行った。当然講義はさぼりである。一応麻美が代返を頼んでくれるとは言っていたが。
「お早うございます」
 僕はいつもよりも大きな声で言った。すでに、近所迷惑など考えもしなかった。
「お早う」
 いつものように両親が出迎えてくれる、そしてその後に、菜穂子が現れた。
「今日は、一段ときれいだね」
「ありがとう」
 彼女は明らかに容態が悪化していた。昨日は一人でも立てたのに、今日は支え無しでは立つ事もできないようだった。
 僕は彼女を抱き上げると、助手席に乗せた、すぐに自分も運転席に座る。
「じゃ、いってきます」
「いってらっしゃい」
 僕達は両親に見送られ、車を出した。


「じゃあ菜穂子。今日はどこの海に行こうか。どこでも良いぞ。まあ……ハワイとかシベリアとか言われたら困るけど」
「じゃあね、お兄ちゃん」
「おう」
「あまり、人がいないところが良いな……」
「人がいない?」
「うん……誰もいない海岸で、二人で砂浜に座って海を眺めたいの」
「そうねえ……じゃあ、千葉のほうでも行きますか。田舎だけど」
「……ありがとう」
 僕は、思いきりアクセルを踏んだ。


「何か聴くかい……そうは言っても、たいしたのはないけど……」
「お兄ちゃんが、いつも聴いているのがいいな……」
「そう? そうだね……じゃあ、これがいいかな」
 そう言って僕が取り出したのは、矢井田瞳の『Candlize』だった。
「これのさ、『Buzzstyle』っていうのがいいんだ」
「ふうん」
「いや、一度聴いたら癖になるよ、これは」
「麻薬かなんかじゃないの」
「そうかもしれないね。一日一回、これを聴かないと気がすまないとか」
「へんなの」
「今度貸してあげるからさ」
「うん」
 でも、『今度』なんて、あるのだろうか……。
 僕はその考えをあわてて打ち消す。
 僕達は、ヤイコの曲に乗って房総半島へと向かった。

 できるだけ美しい海岸を選んで、僕は車を止めた、ここは昔、家族で潮干狩りにきた海岸だ。
 さすがに、十二月の海岸は誰もいなかった。気候に加えて、千葉という田舎、そしてとどめに平日である。誰もいるはずがない。
 風が結構、冷たかったりする。
「でも、いいね」
 僕は菜穂子を抱いたまま砂浜に降りる。
「服、汚れても気にしない?」
「うん」
 僕は彼女をゆっくりと砂浜に降ろす。
 隣に僕が座る。
 彼女が体重を僕に預ける。
 僕は優しく、彼女の腰に手を回す。
「まるで、恋人みたいだね」
 不意に、彼女が言った。
「そう……だね」
 僕はちょっとぎこちなく答える。
 緊張しているのだろうか?


「お兄ちゃん」
「ん」
「私ね、ファーストキスは、海岸って決めてたの」
「ほう」
「ね……キスして」
「えっ?」
 あわてて振り向くと、彼女はすでに目を閉じていた。
「ね……」
 しばしの沈黙の後、僕は意を決して彼女の唇にそっとキスした。
 さりげなく、優しくしたつもりだったけれど、ものすごくぎこちなかったかもしれない。
 何せ、僕だって初めてのキスなのだから。
「ねえ、もう一度……」
 菜穂子は僕の首に手を回してきた。
「お、お前……人が……」
 人が来たらどうするんだ。
 そう言おうとする前に、彼女の唇が僕の口を塞いだ。
 彼女の唇は、暖かかった。
 不意に、僕の中で何かが切れた音を聞いた気がした。
 思わず、僕も彼女を抱きしめていた。すでに僕は、まわりは一切見えなくなっていた。
「ねえ……抱いて」
 彼女のセリフも、対して違和感を感じなかった。
 今ここにいるのは、一組の男と女なんだと思った。
 僕は彼女の上着のボタンを外し、シャツの上から彼女の胸に触れた。
「んっ」
 菜穂子が反応する。
 優しく揉んでみる。
「ん……あっ」
 彼女の口から悩ましい声がこぼれる。それを聞きながら、僕は服の隙間から左手を滑り込ませた。
 僕の利き腕が、彼女の上半身をまさぐる。
「あふっ」
 彼女の身体が敏感に反応する。
(女の子の身体って、すごく暖かいんだな……)
 僕はぼんやりとした頭で、そんな事を考えていた。
「んん……」
 暖かい……。
 いや、これは暖かいとか、そう言うのではなかった。
 熱い!
「お前、すごい熱じゃないか!」
 僕はがばっと起きあがった。同時に、今までやっていた事を思いだし、恥ずかしさで顔が熱くなる。
「はやく、病院に行かなきゃ!」
僕は彼女を抱え上げようとしたが、彼女は首を振った。
「ねえ、お願い。このままでいて……」
「ばかな! そんな事をしたら、お前が死んじまう!」
「どっちにしても、同じことだよ。私はもう、長くないから……」
「何でそんな事を……」
「自分の身体は、自分が一番よく知ってる……。昨日はあんなに身体が軽かったのに、今日は寄りかかって歩くのがやっと、そのとき、私にはわかったの、ああ、もうすぐ死ぬから、あんなに身体が軽かったんだな……って。でも、どうせ死ぬなら、一番好きな人の腕の中で死にたいと思ったの。だから……」
「わかった。もう何も言うな……」
 ああ、もうおしまいなんだ。
 彼女は、もうどんな事をしても、生きる望みは繋げられないだろうと思った。それは直感だけれども、これだけは外さない自信があった。
「ね、だから、抱いて……私、お兄ちゃんになら……」
「いや、僕には出来ないよ……」
 自分を取り戻し、冷静になった今、僕はもう、菜穂子を抱くことはできない。
 代わりに僕は、菜穂子の華奢な身体を抱きしめた。壊れるくらい、強く、激しく。
 二人とも、何も言えなかった。
「ねえ……」
 本当に消えそうな声で、彼女はささやいた。
「お兄ちゃん……彼女いるの……?」
「いるわけないだろ、今までだって、いたこともない……」
「やっぱり、麻美さんは違ったんだ……」
「あ……当たり前だろ! あいつはただの幼なじみだよ」
 何故そんなにむきになって言ったのか、自分でもわからなかった。
「そっか……じゃあ、私が初めての彼女にしてくれる?」
 菜穂子の瞳は真剣だった。
 僕は菜穂子の瞳に逆らうことが出来なかった。いや、僕の想いは、その前から決まっていた。
「……ごめん。そう言うのは、僕から言うべきだったな。菜穂子、僕と、つきあってくれるかい?」
「……はい」
 菜穂子の瞳から、涙がこぼれた。
「私……嬉しい……」
 力無い微笑み。でも僕には、その笑顔が何よりも美しいと、思った。
 
「ねえ……お兄ちゃん……」
 菜穂子の声は、今にも消え入りそうだった。
「違うよ、菜穂子。僕のことは、名前で呼んでよ」
「そうだね……浩司、さん……」
「なんだい?」
「浩司さん……」
「なんだい?」
「こうじ……」
「なーに?」
「ううん、呼びたかったの」
「そっか」
 恥ずかしそうに微笑む。僕も何か、ムズムズするような恥ずかしさを覚えた。
「ねえ……海が……すごくきれい……」
「そうだね……」
 菜穂子の身体は、炎のように熱かった。彼女を抱いていると、寒さを忘れてしまうくらいに。
 きっと命の炎が、最後の炎が全てを燃やし尽くそうとしているんだ。
「ねえ……もう一度だけ……キスして……」
「ああ……」
 僕達は唇を重ね合わせた。長く、永く……まるで時が止まってしまったかのように。
 永遠にも感じられる時間の後、僕達は唇を離した。

「おに……浩司さん……」
「なんだい?」
「私が死んでも、私のこと、忘れないでね」
「何言ってんだ。菜穂子は、僕の最初の彼女だぞ、忘れるはず無いだろ?」
「うふふ、嬉しいな……でね、私が死んでも、変わらないでいて欲しいの。浩司さんは、いつも明るくて、麻美さんや、弘明さんと、楽しそうに笑ってるの」
「ん、わかった」
「あとね……」
「まだあるの?」
「うん……必ず、私よりも素敵な人を恋人にしてね」
「それは……難しいな。菜穂子より素敵な人を探すのは、並大抵の事じゃあない。それに、仮にいたとしても、僕の事を好きになってくれるとは、限らないし……ね」
 僕は苦笑した。
「浩司さん……私ね」
「なに?」
「麻美さんなら、浩司さんの恋人でも、いいな……」
「だーかーら、あいつは……」
「ごめんね、ちょっと、言ってみただけだから……だって……」
 菜穂子は、力なく微笑んだ。
「ね……私……」
「ん?」
「わたし……」
「なんだい?」
「こうじ……さん……の……こ……」
「僕?」
「…………」
 菜穂子が何を言ったのか、僕には最後まで聞き取れなかった。
 不意に彼女は、僕に寄りかかってきた。
 そして、それっきり動かなくなった。
「おい……菜穂子?」
 一瞬、何が起きたのかが信じられなかった。
「菜穂子!」
 僕は菜穂子を揺さぶったけど、彼女は微笑んだまま、動かなかった。
 炎が、消えた。
「うわあああああっっっ」
 僕は菜穂子の身体を思いきり抱きしめながら泣いた。
 熱かった菜穂子の身体が、ゆっくりと冷たくなっていくのがわかった。
 さっきまで、笑っていたのに。
 さっきまで、動いていたのに。
 さっきまで、生きていたのに……。
 僕の頬から、涙が止めどなく流れていく。
 僕は彼女を抱いたまま、大声で泣き続けた。


 どれくらい泣いていたのだろうか。
 気がつくと、空が赤くなっていた。
 もしかしたら、僕は泣きながら眠ってしまったのかもしれない。
「なあ、菜穂子」
 冷たくなってしまった菜穂子に、僕は問いかけた。
「僕は、菜穂子を幸せに出来たのかな?」
 僕に会わなければ、もう少し長く、生きられたかもしれない。
 でも、友達や……恋人は、最後まで出来なかったかもしれない。

 何が最良だったかなんて、誰にもわからない。
 後悔は、山ほどある。
 でも僕は、菜穂子に出会ったことを後悔しない。
 それは、間違いでは無かったと信じてる。
「独りよがりかもしれないけど、僕は菜穂子に会えて、幸せだったよ」

「!」
 僕は不意に空を見上げた。
 気のせいだとは思ったが、誰かに声をかけられたような気がした。
「菜穂子。僕は、お前の分まで生きていくからな」
 僕は空に向かって言葉を返す。東の空には、星が瞬き始めている。
 きっと菜穂子も、輝く星の一つになって、僕たちを見ていてくれるだろう。
 僕は、すっかり冷たくなった菜穂子の身体を抱き上げると、しっかりとした足どりで車に戻った。



  #8

 僕は菜穂子の家に連絡をし、菜穂子の家に戻った。お父さんも、お母さんも、僕を一言も攻めたりはしなかった。むしろ、お礼を言われたほどだった。
 お通夜と告別式が終わると、僕は次の日からいつも通り大学に行き、日曜日にはあの二人にボウリングの誘いをかけた。

「そっか……一日だけの恋人か……」
「彼女いない歴がリセットされたのか、いいなあ浩司」
 弘明は、ぽんぽんと肩を叩いた。でも、コイツの目は、笑っていなかった。
 きっとコイツなりに、気を使ってくれてるんだ。
「僕は、菜穂子を幸せに出来たのかな……」
「結構幸せだったんじゃないかな。こんなにもしてくれるお兄ちゃんが、いたんだからさ」
 麻美が僕に笑いかける。
「そうだと、いいな……」
「俺みたいな友達がいたんだぜ。幸せに決まってんじゃん」
「あー、お前を紹介したのは、失敗だと思ってるよ」
「なにそれ、ひでー」
 三人で、笑う。
「でも、よくお前、落ち込んでないよな」
「僕はね、落ち込んでなんていられないんだよ。菜穂子と約束したから」
「約束」
「ああ、僕は変わらない。お前らと笑って、お前らと泣いて。そして、『彼女欲しいなー』とか弘明と言ってんの」
「なんだそれ。否定しないけどさあ」
 弘明が笑う。
「いいじゃない。菜穂子ちゃんは、こーちゃんのこと良くわかってるのよ」
 麻美は、僕の気持ちがわかっているようだった。
 とりあえず今は、何かをしていないとすぐにダメになってしまう。普通を装ってでも、遊びまわるくらいじゃないと、悲しみに負けそうになるから。
 麻美が言うように、菜穂子もそんな僕のことを、わかっていたのかもしれない。
「んじゃ、いっちょう行きますかっ」
「おーっ」
 麻美が僕に笑いかける。
 弘明が僕の肩に手を回す。
 三人は、いつものようにボウリング場へと向かった。
 この姿は天国にいる菜穂子にも、見えているだろうか。
 僕はこのとおり元気だから、お前も、天国で僕たちを見ていてくれ。
 今度生まれてくるときは、もっと、幸せになれますように……。


 end









  あとがき

 初めてこの話を書いたのは、もう、八年以上前だと思います。多分この話は、内輪ネタ以外ではもっとも長い話なのではないかと思います……長い話は苦手なもので。
 今回は全面的に書き直しました。キャラの年齢設定から季節、またエンディングまで。理由は、今の僕から見ても『文章が稚拙すぎる』ということ。もう一つは『ゲームのネタにしたい』と言うことです。ただ、ゲームのネタにするには分岐をつけなくてはなりません。はう、どうしよう。・・・と、言うわけでエンディングを変えてみたりしてます。
 ゲームの方はいつになるかわからないので、待たないでください(笑)
 では、また次の作品で。
 
 最後に、ここまで読んでいただいたあなたに感謝します。

 2001.12.25 ちゃある

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